伝記
釈道安は、五胡十六国時代の僧で、中国仏教の基礎を築いた人物である。312年に生まれ、385年に没したとされる。本姓は衛氏で、常山郡扶柳県の出身、現在の河北にあたる。伝承によれば、両親を失った後は年長のいとこに育てられ、12歳で出家した。335年ごろに臨漳を訪れ、クチャ出身の高名な僧で布教者の仏図澄の弟子となった。
師の没後、五胡が乱立して混乱を極めた華北で居所を転々としたが、そのもとには次第に門弟が集まり、数百人を率いるまでになった。太行山で教団を率いた後、366年ごろから襄陽で活動するようになると、東晋の孝武帝をはじめ四方から寄進が集まり、門弟も数千人規模となって、住まいの檀渓寺は盛況を極めた。門下には、のちに浄土教に影響を与える教えを説いた慧遠がいる。
379年2月、前秦が襄陽を攻略し、苻堅は高名な道安をいわば政治顧問とするため長安へ連れ去った。苻堅は「朕は10万の軍を用いて襄陽を取ったが、ただ1人半を得た」と述べたという。1人とは道安、半人は東晋の歴史家の習鑿歯であった。苻堅は道安を信任し、皇帝専用の車に同乗させる特権まで与えて優遇した。長安でも苻堅の庇護のもとで経典の研究に打ち込み、多数の経序を後世に残した。西域で名を馳せていた鳩摩羅什を中国に招くよう苻堅に建言したのも道安であった。苻堅の東晋遠征には他の群臣とともに強く諫めて反対したが、383年の淝水の戦いで苻堅が大敗して前秦は滅亡し、道安も長安で亡くなったため、生前に鳩摩羅什の招聘が実現することはなかった。没したのは苻堅の死の直前と伝わる。鳩摩羅什が長安に来て大規模に訳経を始めるのは、次の後秦の時代になってからである。
その功績は仏典の研究と教団の整備にわたる。当時の主流は、老荘思想の概念や用語で仏典を解釈する格義仏教であり、支遁や、同じ仏図澄門下の竺法雅がその代表であった。道安は、仏典は仏教本来の概念や用語で注釈・研究すべきだと主張し、大乗・小乗を問わず、当時訳されていた主な経典に数多くの序文を記して、自説を展開した。自ら訳経には携わらなかったが、必要な経典を訳経僧に漢訳させ、訳経の基本方針として「五失本、三不易」を唱えた。原本の形を失ってもよい5項目と、原本の義を決して改めてはならない3項目である。偽経の混入が想定されたため、374年に経録『綜理衆経目録』1巻を編み、真経と偽経を区別して漢訳仏典を整理した。通称『道安録』は散逸したが、南朝梁の僧祐の『出三蔵記集』の巻2から巻5がこれに基づき、復元が可能である。戒律も重んじ、新訳の律部を研究して受戒の法を整え、行香・定座・上講経・上講の法、日に六度の行道や飲食・唱時の法、布薩・差使・悔過などの法を定めた「僧尼規範」を制定した。
出家者が釈氏を名乗る習慣も道安に始まる。それまでは受戒の師の姓を継ぎ、渡来僧の出身地にちなむ竺・安・康・支などを名乗っていたが、道安は仏図澄の弟子でありながら竺姓を用いず、「大師の本は釈迦より尊きなし」と述べて釈氏を名乗った。直接の師の弟子である以前に仏弟子であるという自覚を重んじたものとされ、この意見は次第に支持を広げ、すべての出家者が釈氏を名乗るようになった。道安はまた、弥勒信仰を持ち、隠士の王嘉や弟子たちと弥勒像の前で誓願を立てて、兜率天への上生を願った。中国における弥勒信仰の創始者とも広く見なされている。