伝記
楊堅は、中国・隋の初代皇帝(在位五八一年〜六〇四年)である。五四一年に生まれ、六〇四年に没した。小名は那羅延、諡は文皇帝、廟号は高祖で、文帝と呼ばれる。疑い深い性格だったが、有能な官僚を用いて内政に努め、約三百年ぶりに中国全土を統一した。その治世は「開皇の治」と呼ばれ、後の唐からも評価され、中国の皇帝の中でも名君の一人とされる。
北周の大将軍楊忠と呂苦桃の子として、馮翊の般若寺という寺で生まれた。幼名の那羅延は金剛力士を表す仏教語で、育てたのは智仙という尼僧だったとされ、幼い頃から仏教に親しんだと考えられる。即位後の五八五年には、生地にちなんで大興国寺を建てたという。楊氏は後漢の楊震の子孫を称したが疑わしく、楊忠の高祖父楊元寿以降の系譜はほぼ事実とされる。鮮卑人ではないかとの説もある。
十四歳で京兆尹の薛善に召されて功曹となり、十五歳で父の功績により成紀県公に封じられ、十六歳で開府儀同三司の位を受けた。北周の明帝・武帝のもとで昇進して大将軍となった。父の死後は隋国公を継ぎ、北斉の平定にも戦功を挙げて柱国に進んだ。五七八年、長女の楊麗華を宣帝の皇后に立てさせ、自らは上柱国・大司馬となって権力を振るった。五八〇年に宣帝が死ぬと、幼い静帝の下で左大丞相として北周の実権を握り、尉遅迥らの反乱を武力で鎮めた。十二月に隋王となり、翌年二月、静帝から禅譲を受けて即位し、隋を開いた。同じ月のうちに北周の宇文氏の皇族の多くを殺害し、五月には、介国公に降されていた静帝(宇文闡)も暗殺した。
大興城(後の長安)を都と定め、五八七年に後梁を、五八九年に陳を滅ぼして、西晋の滅亡以来乱れていた中国を統一した。五九八年には第一次高句麗遠征も行った。内政では中央官制を三省六部に整え、地方では郡を廃して州・県を置いた。九品中正法を廃して科挙を設け、貨幣の統一、府兵制、均田制なども整えて中央集権の体制を固めた。仏教の振興にも力を注いだ。節倹を旨とし、高官には贅沢な服装を許さず、女官にも洗いざらしの衣服を着せたという。六〇〇年には倭王の使者が訪れたと伝わり、使者が「倭王は天を兄、日を弟とする」と説明すると、楊堅は「甚だ不合理だ」としてこれを改めさせたという。跡継ぎをめぐっては、六〇〇年十月に皇后の独孤氏や楊素らの画策で長男の皇太子楊勇が廃され、十一月に次男の楊広(後の煬帝)が太子となった。六〇二年に独孤皇后が没すると、楊堅の女性関係や生活は乱れ始めたという。六〇四年、仁寿宮で重病となった。『隋書』では、楊広が寵愛する宣華夫人に迫ったと聞いた楊堅が激怒し、楊勇を呼ぶよう命じたが、側近の楊素らに阻まれ、女性たちが下がった後に崩御したとされる。殺されたとの説も根強いが、寝殿の中で何があったかは分からず、こうした話は煬帝の暴君伝説の中で作られた部分が多いともいわれる。別の書物には、楊堅が楊広を「死んだ犬」と罵ったとあるが、まるで見てきたような書きぶりで信じがたいとされる。享年は六十四。歴史家の陳舜臣は、北周の外戚という有利な立場にあったことや、宣帝が早世して幼帝が立ったことなど、楊堅には運が味方したと見ている。その自信が、反対の多い改革をやり抜く力になったという。清の趙翼は、北周の皇族を殺した報いとして、楊堅の子の多くが非業の死を遂げたと批判した。一方で、疑い深さを惜しみつつ、統一や科挙の開始を高く評価する見方もある。
同じ年に亡くなった人物
- グレゴリウス1世 (ローマ教皇) (604年没)
- エゼルリック (604年没)
- スレッダ (604年(推定))
- Yohl Ik'nal (604年没)
- ナービガ (604年)