伝記
ハルシャ・ヴァルダナは、590年に生まれ、647年に没した、古代北インド最後の統一王朝とされるヴァルダナ朝の大王である。606年から647年まで在位し、シーラーディトヤの号をもった。漢語の文献では戒日王、尸羅逸多と記される。6世紀半ば、グプタ朝が白いフン族と呼ばれるエフタルの侵入で滅びると、北インドは分裂状態に陥った。彼は、その混乱のなかで北インドを再びまとめ、文武に秀でた名君の一人とされる。
ヴァルダナ朝は、デリー北方のスターネーシュヴァラ(ターネーサル)の王家で、祖父アーディトヤ王と父プラバーカラ王の代に、周辺のフーナやマールワを抑えて国勢を伸ばした。父の死後は、兄ラージヤヴァルダナが王位についたが、姉妹ラージヤシュリーの夫であるマウカリ朝の王がマールワ王に討たれたため、兄は敵討ちに出てマールワ王を破った。しかしベンガル地方の支配者シャシャーンカの策略にかかって殺された。ハルシャは606年、16歳で王位につき、父祖のターネーサルの王国と、王座が空位となったマウカリ朝の領土を合わせた、ガンジス川上流域の大国の王となった。その後、囚われていた姉妹を救出したが、そのとき彼女は自ら命を絶とうとする寸前だったという。
即位後は、マウカリ朝の首都だったガンジス河畔のカナウジを都に定めた。象軍5,000、馬軍20,000、歩兵50,000の軍を組織し、アッサム王バースカラヴァルマンと同盟して、宿敵シャシャーンカのいたベンガルを平定した。その後、6年ほどでチャールキヤ朝のプラケーシン2世の領地を除く北インドの大部分を統一し、軍は象軍60,000、馬兵100,000にも達したという。しかし、プラケーシン2世との戦いでは、ナルマダー河畔で敗れ、南への進出は果たせなかった。この戦いの年は634年頃ともいわれ、618年から619年の冬ともいわれる。カナウジの繁栄は『大唐西域記』にも記された。
ハルシャは初めシヴァ神を信じるヒンドゥー教徒だったが、のちに仏教にも深く帰依し、仏教を題材とする戯曲を自ら著して教団を援助した。629年に唐を出発した玄奘は、630年頃にインドを訪れ、ナーランダ僧院で5年間学び、ハルシャにも進講した。王は玄奘を手厚くもてなし、プラヤーガに招いて大宴会を開いたという。『大唐西域記』によれば、王は毎年諸国の学僧を集めて議論の場を設け、5年に一度は身分を問わず布施を行う無遮大会を催した。この大会では、王の装身具や衣服までが施され、終わると国庫が空になるほどだったという。詩人バーナは王の事績を『ハルシャチャリタ』に著し、王自身も「ナーガーナンダ」などの戯曲を作った。
内政では、本拠のガンジス川上流域を直接治め、他の領土は服従を誓った地方領主に任せた。『大唐西域記』は、30年近くも戦争がなく、政治と宗教が穏やかだったと記す。晩年には唐の太宗と使節を交換し、641年に唐へ使節を送った。唐の王玄策は643年に答礼使の副使として、647年には正使としてインドを訪れた。2度目の訪問はハルシャの死の直後で、王玄策の一行は王位を奪おうとした臣下の兵に捕らえられたが、脱出して吐蕃とネパールから8千余の兵を得て討ち破った。ハルシャは後継者を残さずに没し、王国は急速に分裂して、ラージプートの時代へと移った。
同じ年に亡くなった人物
- Gregory the Patrician (647年)
- 善徳女王 (647年没)
- Ka'b bin Zuhayr (647年没)
同じ地域に関係する人物
- サリーム・チシュティー (1572年没)
- シェール・シャー (1545年没)
- スミトラナンダン・パント (1977年没)
- A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ (1977年没)
- アクバル (1605年没)