伝記
アバイ・チャラナラヴィンダ・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダは、1896年9月1日にインドのカルカッタで、ベンガル人のヒンドゥー教徒の家に生まれ、クリシュナ意識国際協会の創設者となった人物である。出生時の名はアバイ・チャラン・デーで、両親ゴウル・モーハンとラジャニは、「恐れのない者」を意味するこの名をつけた。両親はゴウディヤ・ヴァイシュナヴァ、すなわちチャイタンニャの教えに従う信徒で、父は中流の商人であった。生誕の際、父が招いた占星術師は、アバイが70歳で海を渡り、有名な宗教の師となって世界に108の寺院を開くと予言したという。家の向かいにはラーダー・クリシュナの寺院があり、幼いアバイは毎日、両親や召使いに付き添われて礼拝に通った。6歳のときには、父にねだって、プリーの山車祭りの山車の縮小版を手に入れ、祭りを再現している。
母は法律を学びにロンドンへ行くことを望んだが、父は許さなかった。1916年にカルカッタのスコットランド教会大学で学び始め、1918年には父が決めた縁談で、貴族の家のラーダーラーニー・ダッターと結婚した。結婚生活のあいだに5人の子をもうけている。大学を出ると製薬会社で働き、のちにアラハバードで自らの製薬会社も開いた。1922年、サナータナ・ダルマの教師となるバクティシッダーンタ・サラスヴァティー・タークルと出会い、チャイタンニャの流れをくむ信仰に近づいた。1925年にはクリシュナが生まれたとされる聖地ヴリンダーヴァンに巡礼した。1932年にバクティシッダーンタの弟子となり、師から、クリシュナ・チャイタンニャの教えを西洋に広めよ、その教典をすべて英語で記す必要がある、と命じられた。この時、クリシュナが師を通じて使命を与えたと確信したという。
1944年から英語の隔週誌『バック・トゥ・ゴッドヘッド』を刊行し、1950年に結婚生活を離れて隠退の生活に入った。その6年後には聖地ヴリンダーヴァンに向かい、寺院で教典の英訳と解説の執筆に専念した。資金も後援者もなかったが、ある船会社の所有者の善意により無料でアメリカ合衆国へ渡り、1965年、69歳でニューヨークに着いた。到着後は、イースト・ヴィレッジで若者たちに布教を始めた。新しい生き方を求める彼らにこそ、クリシュナ意識を伝えるべきだと考えたのである。1966年の春に小さな寺院を開き、看板に「クリシュナ意識国際協会」と書いて、同年7月には免税の宗教法人として認められた。9月8日には、11人の弟子の入門式を行った。
その一人はサンフランシスコに渡って寺院用の部屋を借り、1967年1月にプラブパーダも同地を訪れた。1月29日にはマントラ・ロック・コンサートに参加した。グレイトフル・デッドやジェファーソン・エアプレインらが出演するなかで、中心に据えられたと伝えられ、このコンサートは彼に心酔していたアレン・ギンズバーグの発案であった。「ハレー・クリシュナ」の言葉は、サンフランシスコのヒッピーたちのあいだに広まった。1968年にアメリカへ戻ると、教典の翻訳と弟子の育成に励み、弟子たちは世界各地に寺院を設けた。1969年9月にはロンドンを訪れ、インド風の服装の信者の姿とともに、マスコミで話題になった。ロサンゼルスの寺院は土地を所有する最初の寺院で、協会の本部となった。1971年11月にはインドに寺院を建てる計画を実行し、マヤプール、ボンベイ、ヴリンダーヴァンの三か所に建てた。1977年11月14日、81年の生涯を閉じた。
同じ年に亡くなった人物
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- アーチボルド・ヒル (1977年没)
- アレクサンドル・ヴァシレフスキー (1977年没)
- エヴゲーニヤ・ギンズブルグ (1977年没)
- フィリップ・エッター (1977年没)
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- シャー・ジャハーン (1666年没)
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- ファルザナ・ソムル (1836年没)