伝記
シェール・シャーは、1545年5月22日に没したスール朝の創始者である。生年は1472年とも1486年ともされ、はっきりしない。本名はファリード・ハーンといい、ビハール州のサーサーラームで生まれた。パシュトゥーン人のスール族の出で、祖父イブラーヒーム・ハーンはローディー朝のバフロール・ローディーの時代にアフガニスタンのロー地方から移り、馬の商いから身を起こして領地を得た。父ハサン・ハーンはビハールのサーサーラームなどのジャーギール(知行地)を領した。「シェール」はペルシア語で獅子、インドでは虎の意で、ビハールの総督を襲ってきた虎を、若いころに殺した勇気にちなんで与えられた名とされる。
父には妻が何人もおり、継母との折り合いが悪かったため、15歳のころ「自らの幸福を探すため」ジャウンプルへ旅立った。ジャウンプルでは勉学に励み、行政に必要なアラビア語やペルシア語を習得した。行政手腕が立派だったため、まもなく父から自らのジャーギールの運営を命じられたが、継母との不和などから父のもとを去り、ムガル皇帝バーブルのもとへ赴いた。1522年にはビハールを統治するバハール・ハーンに仕え、その子ジャラール・ハーンの家庭教師を務め、ワキールと呼ばれる統治者にも任命された。出世を妬む者も多く、父から引き継いだジャーギールも奪われたため、1527年4月から1528年6月の間はバーブルの軍に従軍した。しかしすぐに離れ、ビハールへ帰って、ジャラールの家庭教師兼保護者に復した。ジャラールが幼かったので、程なくシェールがビハールの統治者となった。
1531年、バーブルの後を継いだフマーユーンから独立を宣言した。アフガン人やジャラールは我慢できず、ベンガル・スルターン朝のムハンマド・シャーと同盟を結んだが、1534年にキウル川でベンガル軍を破り、ベンガルへ侵攻して領域とした。フマーユーンはアフガン人の勢力が大きくなることを危惧し、1537年にチュナールを包囲したが、シェールの軍はその間ガウル攻略に専念し、翌年4月に成功した。1539年のチャウサの戦い、1540年5月のカナウジの会戦でフマーユーンを圧倒したシェールは、デリーとアーグラーを占領して王朝を創始した。フマーユーンはペルシアへ逃亡を余儀なくされ、北インドはスール朝の覇権が確立した。
即位後は、フマーユーンに味方したパンジャーブの豪族を攻撃し、1541年にロータス・フォートの建設を始めた。ラージプートの脅威に対しては、1544年に6万の軍勢を率い、4万のマールデーヴの軍にサメールの会戦を挑んだ。前夜に敵陣へ偽の手紙をもたらして混乱させ、兵士が離脱したところを勝利したが、自軍も数名の将軍を失い、大きな打撃を受けた。ラーイセーンでは攻城戦に手間取り、偽計を用いて攻略した。領域は西はインダス川流域から東はベンガルにまで広がった。1545年5月、ウッタル・プラデーシュ州のカーリンジャルを攻囲中、砲弾の暴発事故で死亡し、息子のイスラーム・シャーが後を継いだ。
在位は5年ほどでありながら、北インドを47のサルカールに分けてパルガナに細分し、行政官を2、3年で異動させて土地との地縁を断つなどの改革を行った。この内容は後にアクバルへ引き継がれた。自由な貿易を妨げる税は撤廃し、道路網を整備した。ルピー硬貨も発行した。朝は午前3時から始まり、常に真面目に政務を行ったという。この改革によって、インドで最高の名君とまでいわれる。
同じ年に亡くなった人物
- イニゴ・オルティス・デ・レテス (1545年)
- ハンス・バルドゥング (1545年没)
- クリストッフ・ルドルフ (1545年没)
- ルートヴィヒ10世 (バイエルン公) (1545年没)
- アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク (1545年没)
同じ地域に関係する人物
- Ram Prasad Bismil (1927年没)
- Abul Hasan Ali Hasani Nadwi (1999年没)
- Ahmed Raza Khan Barelvi (1921年没)
- サリーム・チシュティー (1572年没)
- アーザム・シャー (1707年没)