伝記
カァブ・イブン・ズハイルは、7世紀のアラビアの詩人で、預言者ムハンマドと同時代を生きた。ムザイナ族の出身で、ジャーヒリーヤ時代と初期イスラームの双方を生きた詩人「ムハドラム」の代表格とされる。没年は645年ごろとも647年ともいわれる。ムハンマドをたたえるカスィーダ(長詩)『バーナト・スアード(スアードは去った)』の作者であり、これはアラビア語で最初のナアト(預言者賛歌)とされる。
家はアラビアでも屈指の詩人の家系だった。父は名高い詩人ズハイル・イブン・アビー・スルマーで、カァブはその子、アブー・スルマーの孫、ブジャイルの弟にあたり、女流詩人ハンサーやスルマーの甥でもあった。のちには息子のウクバや孫のアウワーム、クライドも詩人となった。青年期の多くはドゥブヤーン族のもとで過ごし、同族がタイ族やクライシュ族、ハズラジュ族と戦った争いにも加わったとされる。父のズハイルは戦利品の分配を不当と考えて自分の部族を去り、妻の部族であるガタファーン族のもとに身を寄せた。カァブは一時、父の母方の叔父や、ズハイルを育てた人物のもとで世話を受けたのち、父や兄弟のブジャイル、サリームと合流し、長くガタファーン族の間で暮らした。
詩は幼いころから作り始めた。父は、考えや言葉が固まるまで詩作を控えるよう勧めて禁じたが、カァブは作り続けた。ついに父が厳しい試験を課し、それに通ったことで詩作を許され、当時の名高い詩人になったと伝えられる。詩は父から直接学び、兄ブジャイルや詩人ウタイアとともに教えを受けた。ウタイアは詩の伝承者となり、カァブの詩を暗誦して広めた。批評家のなかには、父が名声を得た長詩を作っていなければ、父より息子のほうを偉大な詩人と見なさなかっただろう、と述べる者もいる。一方、言葉遣いが難しすぎなければ父に並ぶ大詩人になれたはずだと評する者もいる。
ムハンマドがメディナに入って間もないころ、周囲にはすでにイスラームに入った者が多かったが、カァブは新しい宗教に反対し、ムハンマドを詩でそしり続ける詩人の一人だった。事態が悪化したのは、兄ブジャイルが7年(628〜629年)の少し前にイスラームに入ったときである。カァブは兄の決断を非難し、ムハンマド本人も風刺する詩を作った。これを受けて、ムハンマドはカァブの処刑を認めたと伝えられる。カァブは同族のムザイナ族に身を寄せようとしたが拒まれ、「大地は狭くなった」と言われるほど追い詰められた。兄ブジャイルから、イスラームを受け入れれば赦されると書き送られ、抵抗をやめてメディナへ向かった。
9年(630年)、カァブは預言者のモスクに突然現れ、移住者や援助者のイスラーム教徒が集まるなかで入信を表明し、赦しを乞うために作った『バーナト・スアード』を朗誦した。使者は導きを求める光であり、神の剣のうちから抜き放たれた剣だという一節に至ると、ムハンマドは感動し、自らの外套(ブルダ)を脱いでカァブの肩にかけたという。この外套は聖遺物として保存されてきたと伝えられる。この出来事から詩は「外套のカスィーダ」と呼ばれるようになり、のちにブーシーリーが作った有名な同名の詩にも名が受け継がれた。ブーシーリーの作が夢の中で外套を授かった話に基づくのに対し、カァブの場合は実際に外套がかけられたが、この元祖の外套の詩は後者ほど有名ではない。カァブの詩はジャーヒリーヤ詩の形式を保ち、恋の序章から始まる。ほかにも詩集には、精緻な描写や比喩、格言めいた句を用いた詩が多く収められている。
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