伝記
アクバルは、1542年10月、西インドのシンド地方にあるウマルコート城で、ムガル帝国の第2代君主フマーユーンと妃ハミーダ・バーヌー・ベーグムの間に生まれた。満月の夜の誕生にちなむバドルッディーンの名を与えられ、アクバルの名は母方の祖父にちなむという。父はパシュトゥーン人のシェール・シャーに北インドの帝位を追われて流浪の身にあり、幼少期は多難であった。1543年11月、父がサファヴィー朝に亡命するためイスファハーンへ向かうと、アクバルはカンダハールを統治する叔父アスカリーのもとへ人質に出され、翌年から翌々年にかけての冬にはカーブルの叔父カームラーンのもとへ移された。1545年11月に父がカーブルへ入城して再会したが、1546年11月に父が追放されると、再びカームラーンの人質となった。父によるカーブル奪還の最中の10月8日には、カームラーンの命令で城壁にさらされて包囲軍の砲撃を受ける危機に陥ったが、姿を見た砲兵隊指揮官のとっさの判断で砲撃が中止され、難を免れた。
1547年4月に父と合流し、同年11月に初めて家庭教師の指導を受けた。1550年前半に再びカームラーンの人質となったが、同年後半に父がカーブルを奪還して合流した。1551年にはガズニー知事に任命され、父がデリーを奪還した1555年7月の後、11月にはパンジャーブ太守となった。この間の6月に後継者に指名され、スール朝との戦いで戦功のあったバイラム・ハーンが後見人となった。
1556年1月、父が図書館の階段から落ちて事故死し、2月14日、アクバルは13歳でデリーにおいて即位し、宰相バイラム・ハーンが摂政を務めた。当初の統治は不安定で、スール朝の3人の王が健在であり、野菜売りの出から軍総司令官・宰相にまで上りつめたヘームーは、さらに危険であった。ヘームーは混乱に乗じて挙兵し、デリーとアーグラを占領した。帝国軍2万に対しヘームーの軍は10万を超えていたため、将校らはカーブルへの退却を提案した。しかしアクバルとバイラム・ハーンは戦うべきだとし、バイラム・ハーンがデリーを明け渡したタールディー・ベグを処刑すると、軍は士気を取り戻した。同年11月5日、デリー北郊のパーニーパットで両軍が激突した。ここは1526年に祖父バーブルがローディー朝を破った地でもある。帝国軍は両翼を包囲されて敗北寸前となったが、象の上で指揮をとっていたヘームーが片目を矢で射られて意識を失い、軍は混乱して数時間後に潰走した。捕らえられたヘームーの処刑を、バイラム・ハーンは「ガーズィー」の称号を得るためアクバル自身にさせようとしたが、アクバルは抵抗できない敵に手を下すことを拒み、剣に手を添えるにとどめた。
アクバルは同月7日にデリーへ入城した。バイラム・ハーンは摂政として権勢を誇ったが、傲慢さやシーア派信仰への批判から、貴族や後宮勢力の反感を買った。1560年3月、アクバルは乳母頭マーハム・アナガらの知恵を借りてバイラム・ハーンを失脚させ、メッカ巡礼を命じた。バイラム・ハーンは反乱を起こしたが半年ほどで鎮圧され、アクバルは寛大に迎えて巡礼を許したものの、1561年1月にパータンで、個人的な恨みを持つアフガン人に殺害された。その後は乳母のマーハム・アナガが最高権力者となったが、その息子アドハム・ハーンは、1562年にアーグラ城で宰相アトガ・ハーンを刺し殺した。アクバルは1605年10月に没した。祖父の立てたムガル朝を真に帝国と呼ぶにふさわしい国家へ発展させたとされ、アショーカ王に並び称される大帝と呼ばれる。
同じ年に亡くなった人物
- レオ11世 (ローマ教皇) (1605年没)
- テオドール・ド・ベーズ (1605年没)
- ポンチュス・ド・チヤール (1605年)
- ヤン・ザモイスキ (1605年没)
- オラーツィオ・ヴェッキ (1605年没)
同じ地域に関係する人物
- バーブル (1530年没)
- ビスミッラー・カーン (2006年没)
- Ahmed Raza Khan Barelvi (1921年没)
- アブドゥル・ラヒーム・ハーン (1627年没)
- ナイン・シン・ラワット (1882年没)