HISTORICAL PERSON · 632年没

ファーティマ

預言者ムハンマドの娘で、アリーの妻。シーア派イマームの祖として尊敬され、イスラーム圏では理想の女性の象徴ともみなされる。

生涯
632年没
死亡地
サウジアラビア王国(マディーナ州 / マディーナ)
出生地
サウジアラビア王国(メッカ)
出典
世界地図
サウジアラビア王国(マディーナ州)

伝記

ファーティマは、イスラームの開祖ムハンマドの娘で、第4代正統カリフとなるアリーの妻である。生年は伝承によって異なり、スンナ派では606年、シーア派では614年とされる。没したのは632年8月28日である。ムハンマドの血を引く娘であること、そしてシーア派のイマームの祖となったことから、シーア派では非常に尊敬されており、ムハンマドの寵愛を受けた存在として、イスラーム圏では理想の女性の象徴ともみなされている。今日でも、最もよく知られた女性の名前の一つである。

ムハンマドと最初の妻ハディージャの娘として、マッカで生まれた。ただし、伝承にはスンナ派とシーア派で違いがある。スンナ派の歴史的な伝承では、ハディージャとムハンマドの末娘として生まれ、若くして病死したとされる。一方、シーア派の伝承では、彼女はムハンマドの唯一の娘であり、末娘という位置づけは、夫アリーの正当性を貶めるためにスンナ派が広めたものだと説明されてきた。これらの伝承は、最初は口承でそれぞれの集団の内部に伝わり、100年以上のちに文章になったため、どちらが事実に近いのかを判断するのは難しいとされる。

ムハンマドがマッカからマディーナに移った後、ウマルとアブー・バクルら数人が彼女との結婚を望んだが、ムハンマドは、何をすべきか神が命じるのを待っているとして、求婚を断った。しばらくして、神が娘をアリーに嫁がせるよう命じたとアリーに告げた。アリーは貧しく、自分からは求婚しなかったため、ムハンマドは鎧を売って持参金を用意するよう助言した。金額の3分の1から3分の2は香水に、残りは家庭の必需品に使われたという。イブン・サアドによれば、ファーティマは何も言わず、ムハンマドはこれを満足のしるしと見なした。この結婚は、ムハンマドの親族のうち最も重要で神聖な人物同士の結びつきと見なされ、すべてのイスラーム教徒にとって特別な意味を持つとされる。二人の間には3人の息子と2人の娘が生まれ、長男ハサンと次男フサインは、それぞれシーア派の第2代、第3代イマームとなった。

ファーティマは、ムハンマドの死からわずか数か月後に亡くなった。没時の年齢は、シーア派とスンナ派の伝承によると、18歳か29歳だったとされる。死因をめぐっては両派の見方が分かれる。スンナ派は、父を失った悲しみによる死とする。シーア派は、妊娠していた彼女がウマルとアブー・バクルによるアリーの家への攻撃で重傷を負い、流産して亡くなったと信じている。ファーティマとアリーは、アブー・バクルのカリフ位を受け入れず、ムハンマドがアリーを後継者に選んだと主張した。両派の伝承は、彼女の最後の望みがアブー・バクルを葬儀に出席させないことだったという点で一致しており、アリーは家族と数人の親族とともに、遺体を密かに埋葬した。正確な埋葬地は不明で、スンナ派ではバキーウの墓地か彼女の家のどちらかとされる。

後世には、ファーティマはシーア派で神聖視された。アリーまたはアリーとファーティマの子孫だけがイマームになれるとされたため、イマームを名乗ることは彼女の子孫であると名乗ることとほぼ同じ意味をもつ。10世紀から11世紀にエジプトを中心に興ったファーティマ朝の名も、彼女に由来する。また、「ファーティマの手」と呼ばれる護符への崇拝も見られ、ファートマ、ファーテメなど各地の言語で形を変えつつ、女性の名前として広く好まれている。

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