伝記
アーイシャ・ビント・アブー・バクルは、614年頃にメッカで生まれ、678年にメディナで没したとされる、預言者ムハンマドの三番目の妻である。初代正統カリフのアブー・バクルと、その妻ウンム・ルーマーンの娘で、二人はいずれもムハンマドが厚く信頼した教友であった。ムハンマドとは五代前の祖父でつながる親戚にあたり、姉のアスマーとともに、イスラーム初期に帰依した敬虔な信徒だったという。ムハンマドは彼女が生まれて間もないころから親しくしていた。幼いころ、両親に叱られて泣いていた彼女を見かけたムハンマドが、母に優しくするよう頼んだという逸話も伝わる。
最初の妻ハディージャを失っていたムハンマドは、友人でもあったアブー・バクルから再婚を勧められ、623年に寡婦の女性とアーイシャの二人と婚姻を結んだ。ハディースの伝えるところでは、アーイシャは6歳のころ、当時53歳か54歳だったムハンマドと結婚し、9歳のときに夫婦としての生活に入り、彼の死までさらに9年間を共に過ごした。ただし結婚の年齢や時期は当時の出生記録がないため確実には定められず、学者の間で議論が続いている。ムハンマドの妻は最終的に10人を超えたが、大半は寡婦で、初婚で結婚したのはアーイシャだけだったという。
627年、ムスタリク族との戦いからの帰途で、彼女はムハンマドから贈られた首飾りをなくし、探すうちに隊列からはぐれた。通りかかった若い兵士に助けられ、ラクダに乗せられてメディナに戻ったが、人々は彼女の不義を疑って騒いだ。砂漠で男と一夜を過ごした妻は離縁され、不義を犯せば石打ちにされるのが当時のアラブの慣習だった。事件は大きな政治問題となったが、最終的にムハンマドが疑惑を否定し、疑ってはならないという啓示を受けたと主張して収まった。そのとき側近の誰もが離縁を言い出せないなか、唯一それを口にしたのが、のちの第4代カリフのアリーである。この事件を機にアブー・バクルとアリーの間は冷え、アリーとアーイシャの確執もここに起因すると言われる。
632年6月8日、ムハンマドは彼女の部屋で息を引き取った。死の間際に歯ブラシを湿らせてムハンマドの歯を磨いたという伝承から、スンナ派では最愛の妻と見なされているが、これはスンナ派の伝承であり、シーア派は信じていない。ムハンマドの死後、彼女は言行の証人として2210に及ぶハディースを伝えたとされ、初期のイスラーム社会に強い影響力を持った。第3代カリフのウスマーンの政策を批判し、アリーが第4代カリフに就くと公然と反抗して、656年のラクダの戦いに輿に乗って加わった。しかしアリーに敗れると政治から退き、メディナで20年以上を静かに過ごし、のちにアリーとは和解して、ムアーウィヤ政権にも逆らわなかったとされる。ムハンマドの言行を人々に伝えて指針を与えることに努め、生涯再婚しなかった。詩や医学など幅広い分野の知識も、学者たちに称えられている。
スンナ派では、彼女は尊敬されるべき女性像の典型とされ、その名はハディージャの名と並んで女性に好んでつけられる。一方、シーア派はアリーに反抗した彼女を嫌い、伝えたハディースも信用しない。理想の女性として称えられるのは、アリーの妻でムハンマドの娘ファーティマである。
同じ年に亡くなった人物
- ドヌス (ローマ教皇) (678年没)
- アブドゥッラー・イブン・アーミル (678年)
- Uqbah ibn Amir (678年没)
- Usama ibn Zayd (678年)
同じ地域に関係する人物
- Ubay ibn Ka'b (700年没)
- ハーリド・イブン・アル=ワリード (642年没)
- シェイフ・アフマド・アフサーイー (1826年没)
- イブラーヒーム・イブン・アル=アシュタル (691年没)
- Abd-Allah ibn Jahsh (625年没)