HISTORICAL PERSON · 121年没

蔡倫

後漢の宦官。和帝に仕えて中常侍や尚方令を務め、105年に樹皮や麻くず、魚網などから紙を作って献上し、実用的な製紙法を集大成した。のち安帝に出頭を命じられ毒を飲んで死に、紙の守護神として崇められる。

生涯
121年没
死亡地
中華人民共和国(河南省 / 洛陽市)
出生地
中華人民共和国(耒陽市)
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

蔡倫は、後漢の宦官で、実用的な紙の製造法を整えた人物として知られる。字は敬仲といい、荊州桂陽郡耒陽県の生まれである。生年は63年とも48年ごろともいわれて食い違いがあり、没年は121年とされる。生家は貧しかったとされる。後漢では外戚と宦官との間で激しい権力闘争が続き、蔡倫は鄭衆と並んでその初期の人物として名が挙がる。

75年、明帝の永平年間の末に宦官として宮廷に登用され、章帝のころは位の低い小黄門であった。和帝が即位した後の89年には、中常侍にまで昇った。誠実な人柄と、学問や工作を好むこと、また潔癖な振る舞いが評価され、97年には尚方令の役職を得た。これは剣などの武器や様々な品物の製作を監督し、製造技術を確立する任務であった。この時代、文字は木の皮や竹、絹の布などに書かれていたが、竹簡は重く、絹は高価であるという欠点があった。

105年、蔡倫は樹皮、麻くず、破れた魚網などの廃物を材料に紙を作り、和帝に献上した。その紙は優れていたため、皆が使い、「蔡侯紙」と呼ばれた。なお、献上を95年とする説もあり、年には食い違いが見られる。和帝から厚い信頼を得た蔡倫は、国家計画を立案する重要な機関にも加わり、しばしば諫言を奏上したとされる。また、儒者の劉珍らによる古典の校正作業を監督し、有能な文人としての一面も発揮した。

だが、紙を献上した105年に和帝が亡くなり、幼くして継いだ殤帝も1年で世を去った。実権を握った太后の鄧綏は、廃された皇太子劉慶の13歳の息子劉祜を安帝に擁立し、外戚と宦官を併用しながら権力を保った。こうした時期の114年、蔡倫は竜亭侯に封じられた。ところが121年に太后が亡くなると、安帝は宦官の協力を得て鄧氏一族の粛清を進めた。安帝は、父の劉慶が皇太子を廃された理由を調べ、祖母の宋貴人が呪詛をしたという讒言で自殺に追い込まれたことを突き止めた。82年に宋貴人の呪詛が事実だと報告したのが、当時小黄門だった蔡倫だった。安帝は蔡倫に、刑罰を担当する廷尉への出頭を命じた。士大夫は礼を守るべきで刑には及ばないという考えから、この勅命を伝える使者は毒薬を携えるのが慣例であった。蔡倫は沐浴し衣服を整えて毒を飲み、死んだ。

現在では、蔡倫は発明者ではなく、従来の技術を統合して実用的な製紙法を定めた改良者と見なされている。前漢の遺跡から植物繊維の紙が出ており、2006年には馬圏湾遺跡の麻紙が蔡倫より100年古いとされた。蔡倫の墓と伝わる場所が湖南省耒陽市の郊外にあり、1950年代の修復で石臼が副葬品として見つかったが、紙作りに使った臼かどうかは不明である。墓は旧封地の陝西省漢中市洋県にあったとする説もある。紙の技術はその後も改良され、後漢以降の中国で詩文や書の隆盛を助けた。のちにタラス河畔の戦いを経てイスラム世界へ、さらに西洋へも伝わった。崔寔の『政論』には蔡倫の名を冠した弩や剣の名が挙がり、紙のほかに武器も手がけたらしい。蔡倫は宦官として偉大な功績を残した人物として、司馬遷、鄭和と並べて称えられた。マイケル・ハートの『歴史を創った100人』では第7位に挙げられた。伝統的な紙漉き職人の間では、紙の守護神として崇められている。陝西省漢中市洋県には蔡倫博物館があり、蔡侯紙が復元されている。

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