HISTORICAL PERSON · 紀元前529没

プリエネのビアス

プリエネ出身のギリシア七賢人の一人。不当に扱われた人々のために無報酬で弁護し、サモスとの争いではプリエネの使節を務めたが不成功に終わった。人の多くは悪いと考えたことで知られる。

生涯
紀元前529没
死亡地
トルコ共和国(アイドゥン県 / プリエネ)
出生地
トルコ共和国(プリエネ)
出典
世界地図
トルコ共和国(アイドゥン県)

伝記

ビアスは、イオニアの都市プリエネに生まれた古代ギリシアの賢人である。プリエネのビアスと呼ばれ、ギリシアの七賢人の一人として広く認められている。生涯を通じ、不当な扱いを受けた人々のために報酬を求めず弁護を引き受けたと伝えられ、政治家として活躍した他の賢人たちと異なり、弁論の人として政治に関わった点に特色がある。

活動したのは紀元前6世紀とされ、父はテウタメス、ソロンより少し年下の同時代人だったという。プリエネを建てたテバイ人の子孫だとも言われるが、当時のイオニアの貴族には、テバイ系の血筋を称する例が多かった。正確な生没年は分からず、紀元前7世紀半ばの第二次メッセニア戦争の文脈で語られることもあれば、リュディア王アリュアッテスの治世や、紀元前6世紀半ばの大帝国の征服との関連で語られることもある。ディオゲネス・ラエルティオスによれば、サモスのドゥリスはビアスを労働者と呼んだが、富裕だったとする者もいた。この時代の常として、史実と伝説の境ははっきりしない。

政治面では、プリエネとサモスの領土争いで使節としてサモスへ赴き、プリエネの主張を弁じた。バティネティスの地はサモスに奪われる前にキンメリア人に奪われたのだからプリエネに属すると論じたが、退けられ、調停者はサモス側に有利な裁定を下した。彼をめぐる話のうち、この使節の役割が最も史実らしいとされ、古代ギリシアで仲裁ではなく調停によって紛争を収めた最古の例だとも言われる。ヘロドトスによれば、ペルシアの攻撃から逃れるため、イオニア人が皆でサルデーニャへ移住して一つの入植地をつくるよう提案したという。ビアスは、イオニア人を一つの集団として論じた最も早い人物の一人に数えられる。また、ヘロドトスは、ビアスかピッタコスのどちらかが、海に慣れたギリシア人と戦うのは不利だとクロイソスに説き、艦隊の建造をやめさせたとも記す。

さまざまな逸話も残る。ミレトスの伝承では、最も賢い生存者に贈られる三脚の鼎が、タレスからビアスへ渡った。タレスがビアスのほうが賢いとして譲ったのである。プリエネの地元伝承では、海賊にさらわれたメッセニアの少女たちの身代金を払い、丁重に親元へ帰したとされる。アリュアッテスがプリエネを包囲した際は、肥えたラバを2頭放ち、砂の上に穀物を広げて食糧が豊富に見せかけ、包囲を思いとどまらせたとも言われる。ディオゲネス・ラエルティオスによれば、後にアリュアッテスから宮廷に招かれたビアスは、玉ねぎを食事にするがよいと答えたという。泣けという意味である。同じ書は、不敬な者たちと船に乗り合わせた際、嵐からの無事を祈れば神々に自分たちの存在を知らせるだけだと止めた話も伝える。

人間観では、「人の多くは悪い」という言葉で知られる。友を将来の敵になりうる者として、敵を将来の友になりうる者として扱えとも説いたと伝わる。ディオゲネス・ラエルティオスによれば、力よりも説得を重んじ、友人同士の争いを収めるより、敵同士の争いを収めるほうが望ましいと考えた。前者では一方が敵になるが、後者では一方が友になるからである。ほかに、不幸に耐えられないことこそ不幸であること、神々を畏れ、善い行いは神々のおかげと考えること、富や財産を重んじないことも彼の言葉として伝えられる。最期は老いてのち、法廷で弁論をしている最中に亡くなったとされ、裁判官が彼に有利な判決を下したとき、孫の膝に頭をもたせたまま息絶えていたのが分かったという。故郷プリエネで顕彰され、歴史上の人物を軽んじたヘラクレイトスからも称賛を受けた。

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