伝記
キュロス2世は、アケメネス朝ペルシア帝国の初代王である。在位は紀元前559年から紀元前529年とされ、エジプトを除く古代オリエントの主要な国々を従えて、当時として空前の大帝国を築いた。大キュロス、キュロス大王とも呼ばれ、同名の小キュロスやアンシャン王キュロス1世と区別してキュロス2世と数える。現代のイランでは、彼をイランの建国者とみなす動きもある。
ギリシアの歴史家ヘロドトスによれば、父はアンシャン王カンビュセス1世、母はメディア王アステュアゲスの娘マンダネで、王子として生まれた。当時のアンシャンはメディアに従属する小さな王国にすぎなかった。紀元前559年に即位してアンシャンの第7代王となったキュロスは、紀元前552年にメディアへ反乱を起こした。紀元前550年には、メディア王に恨みを抱く将軍ハルパゴスの裏切りもあって首都エクバタナを攻略し、王アステュアゲスを倒して宗主国を滅ぼした。この時をもって統一王朝としてのアケメネス朝が始まったとされる。
続いて小アジア西部のリュディアに攻め込んだ。紀元前547年のプテリアの戦いは引き分けたが、同年10月のテュンブラの戦いで王クロイソスを破り、首都サルディスを攻め落として征服した。ヘロドトスは、キュロスがクロイソスを火刑にしようとしたところ、クロイソスがアポロンに嘆願すると突然雨が降って火が消え、命を助けたと伝える。クロイソスはその後キュロスに参謀のように仕えたという。さらにハルパゴスに命じて、小アジア西端のギリシア人の都市国家も従えさせた。紀元前540年にはスーサを陥落させてエラムを滅ぼし、紀元前539年にはオピスの戦いで新バビロニア王ナボニドゥスの軍を大敗させ、10月29日にバビロンへ入城して「諸王の王」と号した。
紀元前538年または紀元前537年に「キュロスの勅令」を発し、バビロン捕囚にあったユダヤ人をはじめ、強制移住させられていた諸民族を解放した。エルサレム神殿の什器を返し、神殿の再建も命じたとされる。再建は難航し、第2神殿が完成した紀元前520年ごろには彼はすでに世を去っていたが、旧約聖書は彼を、ユダヤ人を解放した唯一のユダヤ人ではないメシアとして描いている。バビロンの統治は息子のカンビュセス2世に任せ、旧来の統治機構をそのまま用いた。帝国は20の州に分けられ、各州に太守が置かれたが、この制度はメディア王国のものを受け継いだという。宗教に寛容な姿勢は、その後の王朝でも守られた。晩年は東方に転戦してバクトリアやソグディアナを征服し、サカを従わせ、息子のスメルディスを総督に置いたとされる。
最期についてヘロドトスは、トミュリス女王率いるマッサゲタイ人との戦いで戦死したとする説を伝えるが、クセノポンは戦死せず首都パサルガダエに戻ったと述べており、伝えは一致しない。いずれにせよ王位は太子のカンビュセス2世へ滞りなく移り、紀元前525年にエジプトも征服されて、古代オリエントに統一帝国が誕生した。墓所はパサルガダエにあり、2004年に世界遺産に登録された。後世、クセノポンの『キュロスの教育』などで理想的な君主と評されたが、円筒印章を「世界史上最古の人権宣言」とする喧伝には、宣伝色の濃い史料だという指摘もある。近代のイランでは、パフラヴィー朝の皇帝が民族意識を高める政策の中で彼を建国者として称え、1971年にはペルセポリスで建国2500年の祭典を開いたが、その体制は1979年のイラン革命で倒れた。
同じ年に亡くなった人物
- プリエネのビアス (紀元前529)
同じ地域に関係する人物
- イナルチュク (1219年没)
- アフマド・ヤサヴィー (1166年没)
- ティムール (1405年没)