HISTORICAL PERSON · 紀元前35年没

セクストゥス・ポンペイウス

共和政ローマ末期の軍人で、グナエウス・ポンペイウスの次男。父の死後ヒスパニアでカエサルに抵抗し、暗殺後はシチリアで再び蜂起したが、アグリッパの海軍に敗れ、紀元前35年に捕らえられ処刑された。

生涯
紀元前35年没
死亡地
トルコ共和国(アイドゥン県 / ミレトス)
出生地
古代ローマ
出典
世界地図
トルコ共和国(アイドゥン県)

伝記

セクストゥス・ポンペイウスは、共和政ローマ末期の軍人・政治家である。紀元前67年ごろに生まれ、紀元前35年に没した。第一回三頭政治の一角であったグナエウス・ポンペイウスと、その3番目の妻ムキアの次男で、兄はグナエウス・ポンペイウス・ミノル(小ポンペイウス)である。生年については、40歳で死んだとする記述に基づいて紀元前75年とする説もあるが、紀元前66年か68年とする見方もある。父の死後は元老院派の重要人物として、ヒスパニアを拠点にカエサルへの抵抗を続けた。

紀元前49年にカエサルがルビコン川を渡って内戦が始まると、兄は父とともに東方へ逃れたが、セクストゥスはローマに残り、継母コルネリアのもとにいた。紀元前48年にファルサルスの戦いで父が敗れると、レスボス島のミティレネでコルネリアやセクストゥスと合流したのち、エジプトへ向かったが、到着すると裏切られて暗殺された。セクストゥスはこれを船の上から見ていたという。コルネリアはローマに戻り、セクストゥスはキプロスを経て、兄とともにアフリカ属州での抵抗に加わった。メテルス・スキピオ、小カトーら元老院議員とともにカエサルへの抵抗を続けたが、紀元前46年のタプソスの戦いでカエサルがスキピオと小カトーを破り、二人は自ら命を絶った。セクストゥスはアフリカを逃れ、兄や、カエサルの副将だったラビエヌスらのいるヒスパニアに合流した。かつて父がセルトリウスの乱を鎮圧して以来、この地はポンペイウス派の支持基盤となっていた。

兄弟はイベリア半島の原住民を味方につけて蜂起し、初めは戦いが有利に進んでカエサル派の軍勢を相次いで破り、勢力は一時、半島全域に及んだ。セクストゥスはコルドゥバの守りを任された。しかしカエサル自身がヒスパニアに到着すると形勢は逆転し、紀元前45年3月のムンダの戦いで兄とラビエヌスは戦死した。セクストゥスだけが生き残り、逃れてラケタニア人の地で山賊のような暮らしをしたのち、多くの従者を集めてバエティカに入った。ここは父が定住させた退役兵や原住民の支持があり、総督の抵抗は無力で、カルテイアなど諸都市が彼の手に落ちた。

紀元前44年にカエサルが暗殺されると、これはセクストゥスにとって有利に働いた。後任の総督ポリオは軍事の才に乏しく、何度も敗れ、セクストゥスはバエティカ全域を押さえて、イムペラトルの歓呼を受けた。レピドゥスと休戦して、ローマで父の遺産を受け取ることも認められた。元老院は、没収されていた父の財産の代償として多額の金も与えた。紀元前43年には、元老院がキケロの提案で彼を称える決議を可決し、艦隊と沿岸の指揮官に任じたが、ムティナの包囲を解くためには動かなかった。同年8月、オクタウィアヌスが成立させたペディウス法により、カエサルの暗殺者は追放処分となり、暗殺に関わっていないセクストゥスもその中に含まれた。十月に第二回三頭政治が成立すると、正式に追放された。

セクストゥスはシチリアで再び蜂起し、海上に勢力を築いたが、ナウロクス沖の海戦でオクタウィアヌスの腹心アグリッパ率いる海軍に敗れて力を失った。紀元前35年、ミレトスで捕えられ、処刑された。妻はスクリボニアで、名前の分からない娘がいたというが、それ以外の家族のことは分かっていない。スクリボニアの父リボの姉妹は、のちの初代皇帝アウグストゥスの2番目の妻で、その唯一の実子大ユリアを産んだのち離婚された同名の女性である。

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