伝記
テミストクレスは、アテナイの政治家・軍人であり、都市をギリシア随一の海軍国に育ててペルシア戦争の勝利を導いた人物である。紀元前524年から520年ごろ、アッティカ南東部のフレアリオイの区に生まれた。父ネオクレスは中小貴族で、母の出自は諸説あるが非アテナイ人とされ、混血児として一種の余所者扱いを受けたという。プルタルコスによれば、少年のころから公の生活に備えることに心を砕き、貴族の子らを誘って市外の運動場で共に鍛練し、生まれの区別を崩したという。勤勉で聡明である一方、独善的で名誉欲が強いとされ、同時代の有力者アリステイデスとは生涯にわたって対立した。プルタルコスは、二人が敵対した理由を、ともにステシラオスという美少年を愛したためとする哲学者アリストンの伝聞を紹介しているが、家柄も気質も対照的で、清廉で謀を好まないアリステイデスに対し、彼は賄賂も厭わない策略家だったとされる。
紀元前493年から前492年にかけて執政官を務めたとされる(諸説あり)。マラトンの戦いに加わり、指揮官の一人だったかもしれないが、勝利を皆が喜ぶなかで、彼は大規模なペルシア軍の再来を予見していた。紀元前483年ごろ、ラウレイオン鉱山の銀を使って三段櫂船の大量建造を決議させた。ヘロドトスは200隻とするが、100隻とする資料もある。銀は本来市民に分配されるはずだったが、アイギナとの紛争に用いる船だと説いて説得したとされる。陸戦の限界を見極めて海戦を重んじる考えだったが、マラトンで陸軍を率いたミルティアデスらはこの方針を非難した。
予想どおり、紀元前480年にクセルクセス1世率いる大軍が襲来する。彼は将軍として主導的役割を果たし、アルテミシオンの海戦では一進一退の攻防を行い、サラミスの海戦ではペルシア海軍を撃破した。サラミス直後、彼はクセルクセスに密使を送り、ペルシア艦隊に手加減することと王への好意をほのめかして恩を売ったと伝わる。さらに再来に備えてペイライエウスを整備し、アテナイとの間に防壁を築いた。アテナイの増長を警戒するスパルタが抗議すると、使節として赴いた彼は会議への出頭を延ばし続け、長城完成の時間を稼いだという。
しかし、功績を盾に過剰な名誉と権力を求めたとして信用を失い、紀元前472年か471年ごろ陶片追放でアテナイを追われ、アルゴスへ移った。政敵に反逆罪で訴えられ、さらにスパルタの将軍パウサニアスの反乱に加担した疑いをかけられたため、ケルキュラ、エピロス、マケドニアを経て、ついにペルシアへ亡命した。会ったペルシア王はクセルクセス1世とする説とアルタクセルクセス1世とする説がある。サラミス直後に売った恩を持ち出して迎えられ、一年の暇を得てペルシアの言葉と習慣を学んだのち、小アジアのマグネシアを与えられた。家族には、アルキッペとの間の三人の息子のほか、年上の息子たちや多くの娘がおり、息子クレオパントスは優れた騎手だったとプラトンの『メノン』に見える。
晩年の最期については伝わり方が分かれる。アテナイ遠征の艦隊を率いるよう命じられ、祖国に弓を引くことを良しとせず毒を飲んで自殺したという話がある一方、死は前459年ごろで、おそらく自然死だったとする説明もある。没後は名誉を回復され、ギリシアの救い手と評された。トゥキュディデスは彼を、天才の紛れもない徴を示した人物と評している。彼が築いた海軍力はアテナイの黄金期の土台となり、その肖像は1955年から発行されたギリシャの旧100ドラクマ紙幣にも用いられた。
同じ年に亡くなった人物
- アルタバゾス1世 (紀元前450)
- キモン (紀元前450年没)
- ペレクラテス (紀元前450)
- バッキュリデース (紀元前450年没)
- シュラクサイのアンティオコス (紀元前 450年(推定))
同じ地域に関係する人物
- Bryaxis (紀元前360)
- アナクシメネス (紀元前525年没)
- アナクシマンドロス (紀元前546年没)
- Phocylides (紀元前600)
- Apollonius of Tralles (紀元前160)