HISTORICAL PERSON · 451年没

裴松之

東晋末から南朝宋初の政治家・歴史家。429年に文帝の命で陳寿の『三国志』に注を付け、二百十種の史料を出典つきで引いて散逸を防いだ。この注は『三国志演義』の材料にもなり、文帝は不朽になると称えた。

生涯
451年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(江蘇省 / 塩城市)
出典
世界地図
中華人民共和国(江蘇省)

伝記

裴松之(はい しょうし、372年 - 451年)は、東晋末から南朝宋初にかけての政治家・歴史家である。字は世期。本貫は河東郡聞喜県(現在の山西省運城市聞喜県)で、のちに江南へ移ったとされる。祖父は裴昧、父は裴珪で、官僚を出す家に生まれた。陳寿の『三国志』に注をつけた人物として知られ、自身の伝は『宋書』と『南史』にある。

幼いころから読書を好み、8歳にして『論語』や『詩経』の内容に通じていたが、身なりはいつも簡素だったという。391年、20歳で殿中将軍となって官途に入り、東晋の諸官を歴任した。母方の舅の庾楷は豫州の長官で、のちに桓玄のもとへ逃れ、裴松之を新野太守に推挙した。しかし裴松之は舅に従う危険を考えて赴任せず、のちに庾楷が桓玄に殺されたとき、難を免れた。402年には員外散騎侍郎に棚上げされたとも伝わる。405年ごろには尚書祠部郎となっていた。

当時は祖先の功績を称える碑を建てることが流行し、内容が事実からかけ離れていたため、碑をみだりに建てることを禁じ、内容は朝廷の議論による検閲を経るよう上奏した。416年、のちに南朝宋を建国する劉裕の北伐が行われると、主簿として随行した。劉裕は洛陽を奪回すると、裴松之を「国政をになう人材」と称え、辺境の仕事を任せてはならないとして世子洗馬に任じた。その後、零陵内史・国子博士などを務めた。

420年に劉裕が即位して宋が成立し、文帝の代の426年には各地の巡察で湘州に派遣され、帰ってから観察に基づく24か条を起草した。この功績が認められて中書侍郎となり、西郷侯に封じられ、司・冀二州の大中正にも転じた。429年、文帝の命により、三国時代の歴史書『三国志』の注、いわゆる裴注を完成させた。文帝は「これは不朽となるだろう」と称えたという。また『晋記』を著したが散逸した。ほかに『裴氏家伝』『集注喪服経伝』などの著作がある。晩年は永嘉太守、通直散騎常侍、南琅邪太守などを歴任し、437年、65歳で官を退いた。しかしまもなく朝廷に呼び戻され、中散大夫、国子博士、太中大夫を務めた。451年、病により80歳で没した。

裴注は、陳寿の本文が簡潔にすぎると考えた文帝が命じたものである。陳寿が割愛した事項や、陳寿が退けた史料も集めて加え、注釈と自分の論評もつけたため、本文の約3倍の長さとなり、のちの『三国志』の版に欠かせないものとなった。補闕、備異、懲妄、論弁という四つの体例に基づき、210種に及ぶ史料を引用して史料批判を行い、出典も明記した。このため当時の史料の姿や立場の違いを知ることができ、散逸を免れた史料も多い。引用された文献は魏、呉、蜀漢の順に多い。魏の曹髦殺害の事件では、陳寿が記述をぼかしたのに対し、習鑿歯の『漢晋春秋』を筆頭に引き、異説を並べて読者に比較の機会を与えた。裴松之は、東晋から禅譲を受けた宋の視点から、後漢から禅譲を受けた魏を正統として扱い、曹操を太祖武帝、司馬懿を司馬宣王と呼んだ。先達の陳寿には相応の敬意を示し、陳寿に倣って諸葛亮に好意的で、荀彧や審配のように国家や主君に忠義を尽くした人物を高く評価して、彼らへの異伝には十分な反論を書き残している。蜀漢の逸話の多くは裴注に拠っており、『三国志演義』の形成にも材料を提供した。子の裴駰は『史記集解』の撰者、曾孫の裴子野も著名な歴史家である。母方では、晋の有力な摂政庾亮の曾孫にあたるともされる。

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