伝記
王安石は、1021年に撫州臨川県で生まれた北宋の政治家、思想家、文学者である。字は介甫、号は半山という。父の王益は地方官で、家族が多く、家は豊かではなかった。幼いころから読書を好み、広い知識と記憶力を備え、父に連れられて各地を巡る中で民間の暮らしを目にした。1039年、父が江寧通判の任地で死去した。1042年には22歳で進士となり、殿試では第四位に入った。淮南で官歴を始め、鄞県の長官となると、灌漑のための水利事業を整え、農民に貸付を行った。地方行政を通じて官吏や庶民の困難を知り、1058年、仁宗に一万字に及ぶ改革の上奏文を提出した。歴代王朝が衰えた原因を旧来の統治方法に固執したことに求め、財政と行政組織の問題を解くよう訴えた。科挙が専門的な人材を育てていないことも批判した。
1060年には開封へ送られ、中央や地方の官職を重ねた。1063年から1066年までは母の喪に服した。1067年に江寧の長官となり、神宗の即位後、1069年には副宰相に登用された。翌年には宰相となり、若い官僚を集めた制置三司条例司を通じて新法を推進した。改革は大地主や大商人による土地と富の独占を抑え、中小の農民や商人を保護しながら、政府にも収益をもたらすことを目指した。私的独占の解体、通貨流通の拡大、経済への政府の関与が図られた。軍事面では地方民兵の活用を広げ、行政では教育制度を拡充し、縁故による任用を抑えようとした。経費を削減し、北方の軍事力を強めることも改革の目的であった。一方、司馬光らの旧法派とは激しく対立するようになった。
1073年からは国の事業として『周礼』『詩経』『書経』の注釈書『三経新義』の編纂が進められた。王安石を中心とする新しい儒学は、荊公新学と呼ばれた。1074年に河北で大旱魃が起こると、新法への天の怒りだという主張が出され、皇太后や宦官、官僚の反対が強まった。神宗は王安石を解任し、地方へ退けた。その後も呂恵卿らが新法を進めたが、新法派の内部で分裂が起こった。1075年には王安石が復職し、同年に『三経新義』も完成して科挙改革に影響を与えた。しかし息子王雱の死も重なり、1076年に辞職、翌1077年には官界を引退して隠棲した。引退後も神宗の意向で新法は続けられた。
王安石は散文や詩にも取り組み、その作品は『臨川集』にまとめられた。『孟嘗君伝を読む』『明妃曲二首』『江上』などの作品があり、用語や構成を練り、典故を巧みに用いる精緻な詩風を持った。七言絶句は特に評価され、政治上は対立する欧陽脩や蘇軾にも認められた。先人の詩句を組み合わせて新しい詩を作る集句にも関心を寄せた。思想上は性と情を同質のものと考え、心の内にあって動かない時を性、外へ現れた時を情と捉えた。『字説』では漢字の由来を論じた。1085年に神宗が死去すると、反対派が政権を握り、新法は廃止された。王安石も1086年5月21日に死去した。散文家としては唐宋八大家の一人に数えられ、集句への関心は、黄庭堅に代表される江西詩派の換骨奪胎の手法へ受け継がれた。また後世の小説や戯曲では、王安石は悪役として登場することが多かった。
同じ年に亡くなった人物
- コンラート1世 (ルクセンブルク伯) (1086年没)
- リシルド・ド・エノー (1086年没)
- スライマーン・イブン・クタルミシュ (1086年没)
- グレゴリウス・パクリアノス (1086年没)
- 司馬光 (1086年没)