伝記
秦檜は、元祐5年12月25日(1091年1月17日)に生まれ、南宋の宰相を務めた人物である。字は会之、黄州の出身で、本貫は江寧府(現在の江蘇省南京市)にある。政和5年(1115年)に科挙に合格し、順調に出世を重ねた。靖康2年(1127年)に金が北宋を滅ぼし、華北を治めるために張邦昌を首領に据えて傀儡国家の楚を作ろうとしたとき、秦檜はこれに反対して、同じく反対した他の朝臣とともに粘没喝の軍に北へ連れ去られた。他の宋の旧臣は各地へ連行されたが、秦檜だけは厚遇を受けたという。建炎4年(1130年)に金から解放されて南宋の高宗のもとに着くと、高宗は帰還を喜び、即日礼部尚書とした。翌紹興元年(1131年)には宰相となった。その後、一時は宰相を罷免されたが、すぐに復帰して金との交渉を担った。
当時の国内では、対金戦で軍功を挙げた岳飛をはじめとする武官のグループが台頭し、主戦派の政治家とともに、講和派の秦檜を批判した。これに対して秦檜は、金の圧力を背景に高宗の支持を得て、政権を握った。紹興10年(1140年)に岳飛が北伐を行い、開封まであと一歩に迫りながら補給が続かず撤退を余儀なくされたが、この不当な撤退命令を高宗が送ったのは秦檜の献策によるとされた。紹興11年(1141年)、秦檜は講和に反対する多数の将軍や政治家の官職を剥奪して身分を落とし、救国の英雄といわれた岳飛を反逆罪で謀殺した。翌年、金が占領している国土を割譲し、宋が毎年銀25万両と絹25万疋を金に納めるという、屈辱的な和議を結んだ。これを紹興の和議という。その後も非難は止まなかったが、反対派や義軍を徹底して弾圧し、講和に批判的な民衆にも文字の獄を起こして押さえつけ、およそ19年にわたって権力を握り続けた。
紹興25年(1155年)10月22日、66歳で死んだ。岳飛の孫が著した書物によれば、危篤の秦檜は、なお政敵の張浚を追い落とそうとしていた。病床で張浚に対する判決を記した上奏文に署名しようとしたが、手が震えて書けず、妻の王氏が屏風の後ろから手を振って、役人を引き上げさせようとした。秦檜はなお署名しようとしたが、ついに机に倒れ込み、そのまま死んだという。高宗は秦檜の生前、「私は彼を得たことが嬉しくて夜も眠れないほどだ」と語っていたが、秦檜が死ぬと、武将の楊存中にそれは本意ではなく、「私は今日からは靴の中に匕首を隠さずに済む」と語り、秦檜派の朝臣100人以上を弾劾して罷免した。しかし翌1156年3月の詔書では、講和の策は断じて自らの志であり、秦檜はただよく自分に賛成しただけだと述べ、蒸し返した議論を戒めている。
死後、秦檜は高宗によって申王と追封され、「忠献」の諡を贈られた。開禧2年(1206年)、北伐を進めていた韓侂冑の主導で王爵が取り上げられ、諡も「謬醜」に改められたが、韓侂冑が失脚すると、嘉定元年(1208年)にもとに戻された。しかし朱子学が儒学の正統として公認されると、秦檜への悪評は大勢となり、宝祐2年(1254年)に再び諡が「謬狠」に改められた。秦檜より40歳年下の朱熹は、彼の政権下の紹興18年(1148年)に進士となったが、秦檜が和議を唱えて国を誤らせ、異民族の力を頼んで天子を惑わしたと厳しく批判した。元代に編纂された『宋史』は、秦檜を「姦臣伝」に入れている。明代の正徳8年(1513年)には、杭州の岳王廟の前に罪人の姿をした秦檜夫妻らの像が作られた。
同じ年に亡くなった人物
- アルノルド・ダ・ブレシア (1155年没)
- バフラーム・シャー (1155年(推定))
- 李清照 (1155年没)
- ボリス (1155年(推定))
- ダヴィト5世 (ジョージア王) (1155年)