伝記
沈括は、北宋時代中期の政治家、学者である。1031年に杭州銭塘県(現在の杭州)で生まれ、1095年に没した。字は存中、号は夢渓丈人という。父の沈周は、地方の官職を歴任した、身分の高くない士大夫であった。英語版によれば、母は蘇州の許氏の出で、教養があり、沈括と弟に、自分の兄である許洞の兵法を教えるなど、初等の教育を授けた。北方の名門のような家柄を誇れなかった彼は、自らの才覚と強い意志で学問に励み、科挙に合格して官僚の道に進んだ。1040年頃から、家族は父の任地に従って四川などを移り、最後に国際港の厦門に至った。彼はその途上で、各地の町や農村、多様な地形に関心を持ち、また父の行政の様子から、統治の管理上の問題も学んだという。幼い頃は病気がちだったため、医薬にも自然な好奇心を抱いた。
日本語版によれば、仁宗の嘉祐年間に進士となり、神宗の時に太子中允、検正中書刑房公事、提挙司天監などを歴任した。史館検討を兼ね、淮南で飢饉があると察訪使として派遣され、穀物の値を下げさせ、荒れた田を復興し、水利を整えた。集賢校理となって浙江の水田を視察し、太常丞、修起居注として民政に努め、知制誥、通進銀台司に昇って、河北西路察訪使となった。遼の使者蕭禧が来て、黄嵬山の地は遼の領土だと主張したとき、彼は枢密院の古地図を調べ、長城が遼と宋の国境であると主張して、遼の要求を退けさせた。この功で翰林学士権三司使を拝命した。政治的には、王安石を中心とする新法派に属し、呉充が免役法を批判した際には、不満を述べるのは労役に関係のない士大夫ばかりだと反論した。
のちに宣州知州、龍図閣待制、知審官院を経て、青州知州に任じられたが、赴任の前に延州に改められた。治績を上げて名声が広まったものの、ある事件に連座して均州の団練副使に左遷された。哲宗の元祐初年に秀州に移り、光禄少卿となって南京に赴任した。のち、潤州の夢渓園に隠居し、8年後に没した。
彼は博学で、天文、地誌、暦法、音楽、医薬、卜占など得意分野が広く、文章にもすぐれた。英語版は、数学、光学、時計学にも通じた博物学者と評する。1088年の『夢渓筆談』で、磁針の羅針盤を初めて記し、磁針が真北からずれる偏角の概念も見いだした。同僚の衛朴と、月と惑星の軌道を五年がかりで観測する計画を立てたが、政敵に阻まれた。天文観測のため渾天儀や圭表、視筒を改良し、新しい水時計も考案した。内陸の海の化石や土の浸食、泥の堆積の観察から、地形の形成に関する仮説を立て、地下に保存された古い竹の化石から、気候が徐々に変化するという考えも述べている。ドックでの船の修理や、閘門の効果も記し、活字印刷を発明した畢昇の活字についても書いて、その存在を後世に伝えた。国境視察の際には、立体の地図も作った。
蘇軾の医説を加えた方薬書『蘇沈良方』8巻や、文集『長輿集』19巻も残る。沈遘、沈遼の文集と合わせ、『呉輿三沈集』として知られる。随筆集『夢渓筆談』は、中国の科学技術史でも重要な文献で、日本では平凡社の東洋文庫に梅原郁訳がある。占いや超自然にも関心が深く、目撃者の証言にもとづく未確認の飛行物体の生々しい描写も書き残した。道教と儒教の古い経典への注釈も著した。
同じ年に亡くなった人物
- Henry III, Count of Louvain (1095年没)
- オーロフ1世 (デンマーク王) (1095年没)
- ルーベン1世 (1095年)
- Sophia of Hungary (1095年没)
- ニケフォロス・ブリュエンニオス (1095年没)