伝記
テオドリック1世は、5世紀前半に西ゴート王国を治めた王である。生年は分かっていない。出自については、アラリック1世の庶子、あるいは義理の息子だったとする説があり、バルト家の名門に属し、先王ワリアの娘婿であったともいわれる。418年にワリアが没すると、ゴート人の集会で王に選ばれて即位した。ローマ側はワリアに命じて、西ゴート族をイベリア半島からガリアへ移させていた。テオドリックはその定住を完了させ、ガリア・アクィタニア、ノウェムポプラニア、ガリア・ナルボネンシスに勢力を築いた。トロサ(現在のトゥールーズ)を都としたため、西ゴート王国の実質的な創設者と評される。王は複数の王族の女性と結婚しており、アマラベルガとの間にトリスムンドら二人の息子が、ワリアの娘フラウィア・ウァリアナとの間にエウリックが生まれたという。
王は軍の指揮者であり、行政の長であり、裁判官でもあった。慣習に従って裁きを行い、土地は奉仕の代償として与えるものとして貸与や贈与を避けたとされる。ケルト系、ローマ系、ゴート系と習俗の異なる住民を抱えていたため、成文の規則によって関係の簡素化を図り、キリスト教徒との間でも穏やかな関係を保ったという。この規則は息子エウリックの法にも引き継がれたという。
ローマとの関係は、協力と対立の繰り返しだった。422年にはイベリア半島での戦いにローマ軍と対等の自立した部隊として加わったが、将軍カスティヌスがゴート人の同意なくスエビ族の攻撃に踏み切ったため撤退し、ローマ軍は敗れた。西ローマ帝国の衰えを見て、王は領土を南へ広げようともした。ホノリウス帝の死後に帝位の簒奪が起きて内乱となると、この混乱に乗じて交通の要衝アルルを攻めたが、将軍アエティウスがフン族の協力を得て救った。430年代半ばにはナルボの攻略を狙ってこれを占領したが、アエティウスの軍に追われて撤退し、438年に敗れたとも、フン族の助けを得た将軍リトリウスに阻まれてトロサへ追い込まれたとも伝えられる。トロサではリトリウスを破り、傷ついたリトリウスは捕らえられたまま死んだ。アウィトゥスが和平を仲介し、ローマ側はおそらくこのころ西ゴート国家の主権を認めたとされる。アウィトゥスは王の宮廷に滞在して息子たちに学問を教えたともいう。
王は婚姻を同盟に用いた。娘の一人はヴァンダル王ガイセリックの息子フネリックに嫁いだが、フネリックが皇帝の娘を妻に迎えようとして、夫の殺害を企てたと娘を告発し、443年か444年に送り返した。これで西ゴートとヴァンダルの仲は険悪になった。別の娘は449年にスエビ王レキアルに嫁いだ。レキアルは帰国の途上で各地を荒らしたといわれる。
やがてアッティラの率いるフン族が西へ進み、ガリアを脅かした。アウィトゥスの働きかけで王は、長年の敵アエティウスと手を結んだ。451年6月に連合軍がオルレアンを救ってフン族を退かせ、続くカタラウヌムの戦いでは、王が右翼を、息子トリスムンドが左翼を率いた。王はこの戦いで戦死した。ヨルダネスは、馬から落ちて踏みつけられたとも、東ゴートの貴族アンダギスの投げ槍に貫かれたとも記す。遺体は翌日に見つかり、ゴートの慣習に従って戦士たちの慟哭で迎えられたという。王位はトリスムンドが継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- 裴松之 (451年没)
- ヴァルダン・マミコニアン (451年)
同じ地域に関係する人物
- フィリップ6世 (フランス王) (1350年没)
- アルノルト・ファン・ヘネップ (1957年没)
- ニコラ・ド・グリニー (1703年没)
- マーガレット・ステュアート (1445年没)
- ギヨーム・ド・マショー (1377年没)