伝記
賈充(か じゅう)は、中国の三国時代の魏から西晋にかけての武将・政治家で、字は公閭という。司隷河東郡襄陵県の人である。父は魏の将軍で国への忠節の手本とされた賈逵、母は柳氏で、217年の生まれとされる。賈逵は晩年まで男子に恵まれず、賈充が生まれたときにはたいへん喜んだという。父の死後、12歳で陽里亭侯を継いだ。当初は曹爽や何晏に取り立てられたが、曹爽らが失脚すると一時免職となった。復職してからは、司馬氏の腹心として働いた。正元2年(255年)に毌丘倹と文欽が反乱を起こすと参軍として出征し、司馬師が急死したあとの軍の指揮をとった。甘露2年(257年)には、司馬昭の命で諸葛誕の様子を探る使者となり、諸葛誕に叛意があると報告した。諸葛誕は、賈充が司馬昭を絶えずほめるのを聞いて、これをはねつけたという。報告を受けた司馬昭は諸葛誕を都に呼び戻し、追い込まれた諸葛誕は反乱を起こしたが、まもなく鎮圧された。この件で賈充は司馬昭からいっそう重んじられた。
甘露5年(260年)、皇帝の曹髦が司馬氏から実権を取り戻そうと兵を挙げると、賈充は司馬昭の指示で鎮圧に向かい、部下の成済に命じて曹髦を殺させた(甘露の変)。陳泰は賈充を極刑にすべきだと司馬昭に訴えたというが、結局は実行犯の成済だけが罪を着せられて処刑され、賈充は何も問われなかった。この事件以後、賈充は皇帝殺しの人物として世間に知られることになった。景元5年(264年)には、蜀漢征伐後に鍾会が謀反を企てると、司馬昭の命で討伐軍を率いて関中へ向かったが、途中で鍾会の死が伝わり、出兵は取りやめとなった。
司馬昭の死後はその子の司馬炎に仕え、禅譲に協力した。司馬炎(武帝)が即位すると、羊祜・荀勗・裴秀・王沈らとともに晋朝成立の功臣として賞され、賈充の功績は筆頭に挙げられた。魯公に封じられ、司空や尚書令などを歴任し、『泰始律令』編纂の中心人物となった。この法典は刑罰を軽くし、漢・魏の政令を整理し、儒教による秩序を重んじたもので、『晋書』は人々の役に立ったと評価している。農業生産を重視し、権限が重なる官職の統廃合も進めた。一方、刺史などの文官に兵を持たせないようにという進言は、受け入れられなかった。
泰始6年(270年)に雍州・涼州で異民族の大規模な反乱が起きて石鑒が鎮圧に失敗すると、任愷は賈充を派遣するよう進言した。賈充を外へ出すための讒言だったと考えられる。賈充は荀勗と相談し、娘を太子司馬衷の妃にすれば洛陽を離れずにすむという助言を得た。荀勗らの主張で婚姻が決まり、賈充は洛陽に留まれた。こののち任愷派との派閥抗争が続き、賈充は任愷を尚書に転任させて失脚に追い込んだ。庾純が酒席で「高貴郷公(曹髦)はどこにいるのか」と非難したこともあり、庾純は謝罪して辞職した。
呉の征伐には終始消極的で、咸寧6年(280年)の戦いでも開戦に反対し続け、総指揮官を任されても撤退を主張した。しかし杜預らの活躍で呉は滅び、天下は統一された。賈充の地位は揺るがなかった。太康3年(282年)に没したが、博士の秦秀は諡号を「荒」とするよう上申した。司馬炎はこれを認めず、博士の段暢が建議した「武」に決まった。男子がなく、外孫の韓謐(のちの賈謐)が後継者となった。娘の賈南風は恵帝の皇后となって権力闘争を繰り広げ、西晋衰退の一因となり、賈一族は皆殺しとなった。
同じ年に亡くなった人物
- プロブス (282年没)
- Pope Maximus of Alexandria (282年没)
- Theognostus of Alexandria (282年没)
- 皇甫謐 (282年没)