伝記
司馬昭は、三国時代の魏の武将・政治家である。字は子上で、司隷河内郡温県の人。司馬懿の次男で、母は張春華、兄は司馬師にあたる。蜀を滅ぼした功績で晋王・相国に封じられ、晋代に文帝の諡号と太祖の廟号を追贈された。息子には西晋の武帝となる司馬炎ら9人がいる。
景初2年(238年)に新城郷侯に封じられ、正始年間の初めに洛陽典農中郎将となった。魏帝曹叡の奢侈の時代の後を受けて煩瑣な労役を中止し、農時を奪わなかったので万民に歓迎された。正始5年(244年)の興勢の役では征蜀将軍として夏侯玄の副将を務め、戦果の挙がらぬ計画に撤退を進言した。正始10年(249年)正月、父の司馬懿に従って高平陵の変に加わり、軍勢を率いて2つの宮殿を守って曹爽の排斥に貢献した。兄の司馬師は計画に早くから関わっていたが、司馬昭は前夜まで知らされていなかったという。同年、蜀漢の姜維が隴右に侵攻すると、安西将軍・持節として関中に駐屯し、敵の本拠を突くと見せて姜維を撤退させ、孤立した先鋒の句安を降伏に追い込んだ。
嘉平4年(252年)、都督として諸葛誕・胡遵らの征呉に随行したが、東興の戦いで敗れた。諸将の責を問う声が挙がったが、政権を担う司馬師は自らの責任として彼らを咎めず、身内の司馬昭が責任をとって爵位を削られた。嘉平5年(253年)には再び姜維を迎撃するため行征西将軍として長安に駐屯し、姜維が狄道を攻めると公言したのを偽りと看破して動じず、撤退させた。新平郡の羌の叛乱も平定して武威を轟かせ、新城郷侯に復した。正元元年(254年)には新帝曹髦の擁立に貢献し、高都侯に進爵した。
正元2年(255年)、寿春で毌丘倹・文欽の乱が起こると、司馬師が討伐する間、中領軍を兼ねて洛陽を守った。乱の鎮圧後、病が重くなった司馬師を許昌で見舞ったが、兄はまもなく没した。曹髦は司馬昭を許昌に留めて兵権を削ごうとしたが、傅嘏は鍾会と相談してこれを拒み、司馬昭を奉じて洛陽に帰還した。司馬昭は兄の後継として大将軍・録尚書事などに昇った。甘露2年(257年)に諸葛誕が反乱を起こすと、曹髦と郭皇太后を奉じて26万の大軍で東征し、翌年に寿春を陥落させた。降将の文鴦や唐咨をはじめ降兵もすべて赦し、徳義を称えられた。
甘露5年(260年)、曹髦は「司馬昭の心は、路傍の人も皆知っている」などと述べて挙兵したが、賈充の命を受けた成済に刺殺された。陳泰は賈充を斬って謝罪するしかないと告げたが、司馬昭は腹心の賈充を罰せず、罪を成済に帰して一族を皆殺しとし、曹奐を新帝に立てた。景元4年(263年)には鄧艾・鍾会・諸葛緒を指揮官として3方面から蜀を攻めさせ、11月に劉禅が降伏した。邵悌が鍾会は信頼できないと諫めたが取り合わず、翌年正月に鍾会は反乱を企てて殺害された。3月に晋王となり、7月には五等爵を置くなど諸制度を改革し、荀顗が礼儀を、賈充が法律を、裴秀が官制を定め、鄭沖が全体を統括した。世子には嫡子の司馬炎が立てられた。咸熙2年8月9日(265年9月6日)、55歳で没した。死の床で、司馬攸の手を司馬炎に預けて兄弟が争うことを憂えたという。後に司馬炎が即位すると、太祖の廟号が贈られた。魏の簒奪の足場を固めた陰謀家として非難されることが多く、竹林の七賢の一人嵆康の殺害も、その夫人が曹操の曾孫にあたることへの警戒からとされる。その一方で、諸葛誕の乱の後処理で首謀者以外を赦したことは評価されている。