伝記
マルクス・アウレリウス・プロブスは、軍人皇帝時代のローマ皇帝である。232年に生まれ、282年に没した。在位は276年から282年で、再統一されたローマ帝国を受け継ぎ、アウレリアヌスが始めた国境の安定と経済の再建を引き継いだ。
パンノニア属州の州都シルミウムの出身である。若いころから軍隊に志願し、ウァレリアヌス帝の治世に出世して軍団長に抜擢されたとされる。ただし、皇帝即位前の経歴を詳しく伝えるのは『ローマ皇帝群像』だけで、その信頼性には疑問が残る。同書によれば、家族の出自は軍団幕僚の子とも農民の子ともいわれて定かでなく、ゲルマン人やサルマティア人と戦い、アフリカのカルタゴ周辺でも平定に当たったとされる。272年、アウレリアヌスによるパルミラ帝国の征討戦に従い、パルミラ支配下にあったエジプトを占領して勝利に貢献した。アウレリアヌスがローマへ帰るときには、パルミラが支配した東方全域の防衛を任された。
276年、皇帝タキトゥスが死去すると、東方属州の軍隊に支持されて皇帝に名乗りを上げた。すでにシリアとエジプトの防衛を担う東方軍の司令官に登用されており、知らせが届くと六月末か七月初めに兵士たちに皇帝と宣言された。ほぼ同時に、西方属州と元老院の支持を受けたフロリアヌスも皇帝を称したため、両者は対峙したが、フロリアヌスが兵士に暗殺されて決着した。彼の兵士たちはプロブスに従い、その帝位は元老院によっても承認された。『ローマ皇帝群像』は、アウレリアヌスとタキトゥスを殺した者を彼が罰したと述べ、ゾナラスは、彼らを宴に招いて殺したと伝える。
治世の大半は、ライン川とドナウ川の戦線での蛮族の迎撃に費やされた。276年から277年にかけて、ガリアはフランク族とアラマンニ族の襲撃に荒らされたが、プロブスの軍は帰路のゲルマン人を捕らえて大敗を与えた。277年から278年にはライン川の向こうへ進み、268年に失われた、ライン川とドナウ川の間の要地デクマテス農地の支配を回復した。278年から279年には、ドナウ川で、ヴァンダル族やブルグント族、トラキアのサルマティア人と戦った。この間、部下の将軍たちはイサウリアの盗賊の首領を討ち、エジプトでは遊牧民ブレミュエス族の侵入にも対処した。ペルシア王とは休戦を結び、国境の安定は一時的に保たれた。軍人としての能力は高く、蛮族の侵入はほとんど撃破し、逆に蛮族の地へ攻め込んで国境の安定を図りもした。一方、帝国内では反乱が絶えず、280年にはアレクサンドリアで擁立されたサトゥルニヌスらの反乱を鎮め、その後もケルン近郊で二人の僭称者を倒したとされる。
貨幣の銘文では、皇帝を太陽神と結びつけた表現が続いた。ガッリエヌスが定めた宗教的寛容も受け継がれ、キリスト教徒はその恩恵を受けた。経済では農業の振興に力を入れ、ガリア、モエシア、パンノニアでのブドウ栽培とワイン生産を認めた。ドミティアヌス帝が二世紀ほど前に出した禁止の勅令を、事実上取り消したことになる。荒廃した農地の復興という重要事にも取り組んだが、これを担った軍の内部に反発が生まれた。282年、ペルシア戦役に向かう準備の途上、視察の最中に、課された労役に憤る兵士たちに暗殺された。
同じ年に亡くなった人物
- Theognostus of Alexandria (282年没)
- 賈充 (282年没)
- 皇甫謐 (282年没)
- Pope Maximus of Alexandria (282年没)
同じ地域に関係する人物
- Filip Visnjic (1834年没)
- クラウディウス・ゴティクス (270年没)
- キョプリュリュ・ムスタファ・パシャ (1691年没)
- Saint Angelina of Serbia (1520年没)
- ウァラメール (469年没)