HISTORICAL PERSON · 988年没

銭弘俶

十国呉越の第5代で最後の王。947年に兄の廃位を受けて擁立され即位し、農業や製塩、海上貿易を振興して富を蓄えた。978年に領土を宋へ献上して淮海国王に封じられ、仏教の振興にも努めた。

生涯
988年没
死亡地
元(河南省 / 鄧州)
出生地
北宋(杭州)
出典
世界地図
元(河南省)

伝記

銭弘俶(せん こうしゅく)は、五代十国時代の呉越の第5代で最後の王である。文穆王銭元瓘の九男で、母は呉漢月。兄に3代王の銭弘佐、4代王の銭弘倧がいる。北宋の太祖の父の名を避ける習慣から、「弘」の字を略して銭俶と書く文献もある。929年に杭州で生まれ、字は文徳、のちの諡号は忠懿王という。

939年に内牙諸軍指揮使・検校司空となり、兄銭弘佐の代には検校太尉を務めた。947年3月に台州刺史として赴任し、現地で法眼宗の僧、天台徳韶に会った。徳韶に早く杭州へ戻るよう勧められて10月に戻ると、12月に、急激な軍部の改革を恐れた宿将の胡進思が銭弘倧を廃位に追い込み、異母弟の銭弘俶が呉越王に擁立された。948年正月に即位すると、弟の銭弘億を丞相に任じた。胡進思は兄銭弘倧の暗殺を進言したが、弘俶は泣いてこれを拒んだ。胡進思は偽の王命で薛温に暗殺を命じたものの断られ、憂悶のうちに死んだ。

治世の前半は、周辺の大国に従いながら国を守る時期だった。950年には南唐の陳誨が福州に攻めてきたが、策略で退けた。956年には後周の南唐攻めの要請で丞相の呉程を参加させて敗れ、人手不足から民の徴兵を試みたが、弟の銭弘億に諫められて取りやめた。958年には再び後周の南唐攻めに加わり、南唐は後周に帰順した。960年に趙匡胤が即位して北宋が成立すると、クーデターを計画した母方の叔父、呉延福らを流罪とした。処刑を勧められたが、泣いてこれを止めさせたという。宋が後蜀を攻めた964年には、王妃孫太真の弟、孫承祐を派遣して加わらせ、以後は世子の銭惟濬をたびたび開封に代理として送った。970年には南漢攻めへの参加を命じられたが、距離が遠いという理由で免れた。974年10月には宋の南唐攻めに自ら出征して常州を攻め、翌年4月に降伏させた。

976年正月、南唐降伏の祝賀のため海路で開封に入り、4月に帰国した。この年の10月に趙匡胤が急死して弟の趙光義(太宗)が即位し、11月には王妃孫太真が亡くなった。978年3月に再び開封に入り、5月に臣下と図って、13州・1軍・86県の呉越領を宋に献上した。南唐が降ったあと、残る相手が自国と北漢だけになったため、早めに土地を納める決断をしたとされる。ただし、宋の暗黙の圧力があった可能性も指摘される。この「自発的な」降伏により、呉越の地は他の国々を襲った戦乱を免れ、インフラと経済の優位が保たれたという。宋からは淮海国王に封じられ、以後は984年12月に漢南国王、987年2月に南陽国王、ついで許王に改封された。988年2月に鄧王に封じられて鄧州に住んだ。同年に還暦を迎え、祝宴の席上で倒れて亡くなった。一方、太宗が贈った酒を飲んだのち、激しく体調を崩してその夜に亡くなったともされる。国葬が営まれ、秦王を追贈され、洛陽の近くに葬られた。

銭氏は代々仏教への信仰が厚く、弘俶も天台徳韶を国師に招いて菩薩戒を受け、永明延寿を永明寺に招き、阿育王塔(銭弘俶塔)を作らせて各地に奉納した。霊隠寺などの寺を創建し、散逸した天台経典を求めて高麗と日本にも依頼した。杭州の雷峰塔は、その命により、子の誕生を祝って建てられたとされる。国内では農業・製塩業・商業を振興し、東シナ海の海上貿易で富を蓄えた。兄弟や子、従兄弟、甥を高官に任じ、一族で呉越を統治した。詩も好み、作品の一つが今に伝わる。息子は七人いたとされ、その一人は宋の朝廷で宰相に至った。帰順後の一族は、宋の官僚として活躍した。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物