HISTORICAL PERSON · 235年没

ヒッポリュトス (対立教皇)

初期キリスト教の対立教皇で、教皇カリストゥス1世と対立した。様態論に最も激しく反対して多くの著作を残し、235年に皇帝の弾圧でサルデーニャへ流罪となって没し、殉教者として聖人と称される。

生涯
235年没
死亡地
イタリア共和国(ヌーオロ県 / サルデーニャ)
出生地
トルコ共和国(アナトリア)
出典
世界地図
イタリア共和国(ヌーオロ県)

伝記

ヒッポリュトスは、170年頃に生まれ、235年に没したとされる初期キリスト教の人物で、ローマ教会の司祭、ギリシア語で著作した神学者である。史上初の対立教皇とされ、在位は217年から235年と伝わるが、この評価には異論も強い。サベリウス主義やゼフィリヌスを批判し、教皇カリストゥス1世と対立した。235年、皇帝マクシミヌス・トラクスの弾圧により、教皇ポンティアヌスとともにサルデーニャへ流罪となり、そこで没した。早くから殉教者として扱われ、聖ヒッポリュトスと称され、8月13日が記念日とされる。

教会の伝承では当時の西方で最も名声のあるキリスト教著述家とされ、ギリシア人でアレクサンドリアの出身、リヨンのエイレナイオスの弟子だったと伝えられるが、この証言は混同が多く、今では信頼されていない。彼に帰される著作は多く、信仰の面ではオリゲネスに匹敵するといわれるほどである。代表作は『全異端反駁論』とも呼ばれる『ピロソポウメナ』で、異教の魔術師たちの詐欺やごまかしを非難している。ほかにエウセビオスによって知られる著作に、『創造の6日間について』『マルキオンへの駁論』『讃歌について』『パスカについて』『エゼキエル書の諸部分について』などがある。教義の面では、厳密な一神教信仰、禁酒、頻繁な沐浴などユダヤ的キリスト教の要素を保った。ユスティノスら護教家の考えに沿ってロゴス・キリスト論を展開し、『ノエトス駁論』では「オイコノミア」という語を用いて、三位一体論への道筋を示した。

対立の背景には、教義と教会の規律の問題があった。彼は、父・子・聖霊を一つの神の様態の変化とみなす様態論の最も激しい反対者だったが、ローマの司教の多くは様態論者で、カリストゥス1世は様態論の代表サベリウスとヒッポリュトスを同時に破門して論争を沈静させたという。また、カリストゥスが司教の赦免権を重い肉欲の罪にまで広げたことにも反対した。ゼフィリヌスについては批判にとどまったが、カリストゥスには強く反対し、奴隷と貴族の結婚を認める意向を、単なる内縁にすぎないとして退けた。一因には、解放奴隷出身の教皇と、より高貴な家柄で知的優越を自認する彼との対立もあったと考えられる。

217年に支持者たちが彼を司教に選んだとする推測もあるが、裏づけはない。『教皇の書』は彼を司祭としか記しておらず、叙階が認められなかったか、司教になれなかった可能性も指摘されている。分裂はウルバヌス、ポンティアヌスの時代にも続いたとされる一方、のちに彼はポンティアヌスと和解し、ともに流刑地へ送られたと伝わる。教皇ファビアヌスは、遺体をローマに戻すよう当局に求めて認められ、二人は和解の印として同日にカリストゥスのカタコンベの「教皇たちの地下墓所」に葬られたという。

伝承のなかの聖ヒッポリュトスは、13世紀の『黄金伝説』に記された姿である。ローマ皇帝に仕えた軍人で、牢に監禁していた聖ラウレンティウスによってキリスト教徒とされ、皇帝デキウスの追及を受け、荒馬の首に足を縛られ、茨やアザミの野を引きずり回されて殉教したという。一方、1853年に神学者デリンガーが最初の対立教皇と紹介したが、現在の批評は、殉教者ヒッポリュトスを『全異端反駁論』の著者とする見方を退けており、対立教皇と呼ぶ根拠は薄れている。

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