HISTORICAL PERSON · 紀元前77年没

マルクス・アエミリウス・レピドゥス (紀元前78年の執政官)

第二回三頭政治のレピドゥスの父。紀元前78年にスッラ派の候補を抑えて執政官となったが、スッラの死後にファエスラエの反乱側につき、ローマへ進撃してカトゥルスに敗れ、サルディニアへ逃れて病死した。

生涯
紀元前77年没
死亡地
イタリア共和国(ヌーオロ県 / サルデーニャ)
出生地
古代ローマ
出典
世界地図
イタリア共和国(ヌーオロ県)

伝記

マルクス・アエミリウス・レピドゥスは、共和政ローマ後期の政務官で、紀元前78年の執政官である。生年は紀元前120年とされ、紀元前77年にサルディニアで没した。第二回三頭政治の一頭となる同名の人物の父にあたる。

アエミリウス氏族はローマの貴族パトリキで、ノビレスでもあった。古代の著述家は、ローマで最も古い家柄の一つに数えたという。系譜はピタゴラスや王ヌマ・ポンピリウスにまで遡るとされ、一族の人々は高い道徳性で知られたとプルタルコスは述べる。最初にレピドゥスの添名を名乗った人物は紀元前285年に執政官となった。ロシアの研究者エレミンは、マルクスを「スッラ時代の典型的な裏切り貴族」と評した。ただし紀元前126年の同名の執政官以来、しばらく振るわなかった。レピドゥスはルキウス・アップレイウス・サトゥルニヌスの親戚であるアップレイアと結婚した。同盟市戦争ではグナエウス・ポンペイウス・ストラボの配下として戦い、おそらくその息子グナエウス・ポンペイウスと知り合ったと考えられる。続く内戦ではスッラの側についたが、オロシウスは彼をマリウス派と呼んでいる。紀元前82年にノルバの町を裏切りによって奪ったエミリウス・レピドゥスなる人物が伝えられ、この人物がマルクスか親戚のマメルクスかは分からない。

レピドゥスは粛清の際に犠牲者の財産をただ同然で買い、富を築いたともいわれる。もっとも、サッルスティウスの伝える弁明では、自分の安全のためにそうしたと述べている。紀元前81年にはプラエトルに選ばれ、翌年はプロプラエトルとしてシキリアを担当した。属州でもさらに富を蓄え、帰国後はアエミリア会堂を再建し、豪壮な邸宅を建てて、ローマで初めてヌミディア産の大理石を用いたとされる。やがて属州統治での権力濫用により訴えられた。訴えたのは若いメテッルス兄弟で、背後にスッラがいたとも考えられている。プルタルコスによれば、スッラはレピドゥスを「最悪の人間」と呼んだ。急な態度の変化の理由は正確には分からず、ポンペイウスがレピドゥスをかばったこともあって、メテッルス兄弟は告発を取り下げた。

紀元前78年、スッラの最晩年に、レピドゥスは執政官に就任した。スッラ派の対立候補を抑えての当選で、同僚はスッラ派のクィントゥス・ルタティウス・カトゥルス・カピトリヌスだった。紀元前79年ごろ、スッラの周辺はスッラ自身の派とポンペイウスの派に分かれ、ポンペイウスにはレピドゥスやプブリウス・セルウィリウス・ウァティアも加わっていたという。ポンペイウスが彼の立候補を支持した一方、すでに私人となっていたスッラはこの選出を妨げようとしたとされる。スッラの死後、レピドゥスはカトゥルスと葬儀をめぐって対立したが、ポンペイウスの支持もあり、カトゥルスの主張する国葬が行われた。スッラが定めた秩序を覆そうとしたレピドゥスは、元老院と同僚カトゥルスの抵抗にあった。

その後、エトルリアのファエスラエで、スッラの退役兵の植民地が住民らに襲われる事件が起こり、両執政官が鎮圧に向かった。しかしレピドゥスはファエスラエ側につき、選挙の開催のため元老院が召喚したのも無視し、逆に翌年の執政官に就くことを要求した。共和政史上4度目となる元老院最終決議が出され、レピドゥスはローマ市へ進撃したものの、カトゥルスに敗れた。彼は軍とともにサルディニアへ逃れ、その地で病没した。副官だったマルクス・ユニウス・ブルトゥスは、ガリア・キサルピナでポンペイウスに討たれた。

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