伝記
アレクサンデル・セウェルスは、209年に生まれ、235年に没した第24代ローマ皇帝で、セウェルス朝の5人目の皇帝である。その死をもって同王朝は約50年の歴史に幕を下ろし、軍人皇帝時代とも呼ばれる「3世紀の危機」が始まった。属州フェニキアの市で、マルクス・ユリウス・ゲッシウス・マルキアヌスとユリア・アウィタの子として生まれた。父はシリア属州で政務代行官を務めた貴族で、母アウィタはセウェルス朝の外戚バッシアヌス家の出身、先帝ヘリオガバルスの母ソエミアスの妹であり、ヘリオガバルスとは従兄弟の関係にあった。ただし、父マルキアヌスを実父とする説には異議も唱えられ、212年以前に結婚できなかったはずだとして、実父はアウィタの最初の夫だとする主張もある。
221年、バッシアヌス家の女当主である祖母ユリア・マエサは、暴政を続けるヘリオガバルスとソエミアスを見限り、もう一人の孫を皇帝にするため、アレクサンデルをヘリオガバルスの養子とした。危険視したヘリオガバルスに一時は幽閉されたが、これが近衛隊の反乱を招き、翌年、ヘリオガバルスとソエミアスは近衛隊に処刑され、遺体は市中を引き回されたうえティベレ川に捨てられた。即位した少年は、マルクス・アウレリウス・セウェルス・アレクサンデル・アウグストゥスと改名した。
若く穏やかな性格だったが、母や祖母の言いなりでもあった。アウィタは、姉ソエミアスが息子から実権を奪ったのと同じように、取り巻きとともに実権を握った。その中には法学者ウルピアヌスなどがいた。アレクサンデルの后妃サッルスティア・オルビアナの一族が新たな外戚として台頭すると、アウィタは激しく怒って宮殿から追放しようとし、のちに一族ごと追放された。その後に再婚したが子はなかった。また、セウェルス朝の権力の源泉であった軍から距離を置き、膨大化した軍事費の抑制を図ったが、各地で反乱が相次ぎ、首都ではウルピアヌスの振る舞いが近衛隊の不興を買い、その反乱で彼が殺された。皇帝自身に刃は向けられなかったが、カッシウス・ディオら側近が宮殿から追放され、軍との対立が顕著になった。治世の特筆すべき事業に、アレクサンドリナ水道の建設がある。
東方ではサーサーン朝ペルシアの脅威に晒されながらも、平和路線をとっていたが、その戦争が破滅の契機となった。歴史家ヘロディアヌスは、ペルシア軍に屈辱的な敗北を喫したと記す一方、『ローマ皇帝群像』は大勝利を得たと記述する。232年にはタウリアヌスがシリアの軍に呼びかけて反乱を起こしたが、鎮圧され、逃れる際にユーフラテス川で溺死したという。233年にペルシアと和睦してローマへ帰還した。234年、ライン川の防衛線を破った蛮族がガリア北部に侵入すると、軍を派遣して押し返したが、母の助言もあり、賠償金を払って矛を収めさせた。この行動は軍の軽蔑を決定的にし、軍人たちは皇帝を臆病と嘲笑い、蛮族上がりの下級軍人マクシミヌス・トラクスを中心に反乱軍が蜂起した。アレクサンデルは陣中で母とともに殺害された。
それまでの皇帝の失脚は、元老院の決議や民衆蜂起、近衛隊の暗殺によるものがほとんどだったが、軍の反乱で皇帝が倒されたことは、文民統治の終わりを意味したとされる。一方で、母の影響もあって倫理的に清廉であろうと努め、約10年の治世で帝国の風紀は改められたと評される。ユダヤ教やキリスト教にも寛大だったとされ、国営の銀行を開いて安い金利で貸し出したとも伝わる。
同じ年に亡くなった人物
- クァルティヌス (235年)
- ユリア・アウィタ (235年没)
- ヒッポリュトス (対立教皇) (235年没)
- カッシウス・ディオ (235年)
- ポンティアヌス (ローマ教皇) (235年)
同じ地域に関係する人物
- アドルフ・ガーランド (1996年没)
- エゴン・クレプシュ (2010年没)
- ハインリヒ5世 (ルクセンブルク伯) (1281年没)
- ルディ・グーテンドルフ (2019年没)
- ヨハネス・グーテンベルク (1468年没)