伝記
ポンティアヌスは、第18代のローマ司教、すなわちローマ教皇である。在位は230年7月21日から235年9月(25日または28日とされる)までで、没年は235年とされる。生涯はあまり知られていないが、それでも先代までの教皇たちよりは少し多く分かっている。4世紀に書かれた『リベリウス目録』の編者が、今は失われた教皇年代記を見ていたらしいためだとされる。
『教皇の書』によれば、ポンティアヌスはローマ市民で、父の名はカルプルニウスという。司教の座にあった期間は5年2か月22日とされるが、教会史家エウセビオスは6年間と記している。在位の初め、皇帝アレクサンデル・セウェルスが寛容な政策をとったため、教会は比較的穏やかだった。ポンティアヌスは230年か231年、アレクサンドリア司教デメトリオス1世がオリゲネスを追放し罷免したことを承認するローマの教会会議を主宰した。歴史的に確かなこととして挙げられるのはこの会議である。彼は教会内の分裂にも向き合わなければならなかった。対立教皇ヒッポリュトスが、悔い改めた者に対する先代の「寛容さ」を非難し、自らこそローマ司教だと主張して分裂を引き起こしたのである。この分裂は18年続いたとされる。
235年、マクシミヌス・トラクスが皇帝となると、キリスト教徒への迫害が始まった。エウセビオスによれば、新帝は先帝の寛容策を覆した。ポンティアヌスと対立教皇ヒッポリュトスはともに捕らえられ、サルデーニャ島の鉱山での強制労働へ送られた。そこへの流刑は、一般に死の宣告に等しいと見なされていた。『教皇の書』は、送られた先を塩の鉱山で、当時ブッチーナと呼ばれた小島モララだと記す。
流刑を前にしたポンティアヌスは、新しい司教の選出を可能にし、ローマ教会の秩序ある移行を図るため、235年9月28日に辞任した。教皇の辞任はこれが初めてとされる。この日付は『リベリウス目録』に記録されており、同時代人が伝える教皇の在位の完全な日付としても最初のものである。これによって18年続いた分裂は終わった。ヒッポリュトスもポンティアヌスと同じく流刑地から生きて戻らなかった。彼も同時に自らの主張を捨てた可能性が高く、二人は流刑の前か最中に和解したともいわれる。
サルデーニャに流されていた期間は分からない。一説では、強制労働中の虐待で衰弱して死んだとされ、到着から数週間で棒で打たれて死んだと伝える説もある。没したのは235年10月とされる。236年または237年、教皇ファビアヌスが彼とヒッポリュトスの遺骸をローマへ運ばせ、ポンティアヌスはアッピア街道沿いのサン・カリストのカタコンベにある教皇たちの地下墓所に葬られた。1909年にその墓の石板が見つかり、ギリシア語で「ポンティアノス、司教」と刻まれていた。「殉教者」の語は別の手で書き加えられたものである。
ポンティアヌスはカトリック教会と正教会で聖人とされる。1969年の一般ローマ暦と正教会では、ヒッポリュトスとともに8月13日に記念される。民衆の信仰は、かつての敵対者であった二人を、キリストのための殉教者として一つの祝日に結びつけた。一方、1960年の一般ローマ暦などの旧い暦を使う共同体では11月19日である。ローマの名義教会サン・ポンツィアーノのほか、スポレート、ルッカ、サルデーニャのカルボニアにも彼の名を冠した教会がある。
同じ年に亡くなった人物
- アレクサンデル・セウェルス (235年没)
- ヒッポリュトス (対立教皇) (235年没)
- クァルティヌス (235年)
- ユリア・アウィタ (235年没)
- カッシウス・ディオ (235年)
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