HISTORICAL PERSON · 紀元前37年没

京房

前漢の『易経』の大家で、焦延寿に学んだ。易の六十四卦を一年に割り当てる災異説を唱え、予言を的中させて元帝に喜ばれた。官僚の評定法を上奏したが、石顕らに憎まれて告発され、紀元前37年に処刑された。

生涯
紀元前37年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(河南省 / 清豊県)
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

京房(けい ぼう)は、前漢の人で、紀元前77年に生まれ紀元前37年に没したとされる。字は君明、東郡頓丘県の人である。元の姓は李であったが、自ら京氏に改姓した。『易経』の大家として知られ、梁国の人である焦延寿に『易経』を学んだ。焦延寿は「私の説を学んで身を滅ぼすのは、必ずや京房であろう」と評したという。

京房の説は災異に詳しく、易の六十四卦を一年間に割り当て、日々に起こる事を知るというものであった。音楽を好んだともいわれ、楽律の研究者としても知られる。十二の五度と七つの八度の差を計算する方法を五倍に広げ、六十の五度まで数えたところ、五十三の五度が三十一の八度にきわめて近いことに気づいたとされる。計算は、三で割りやすい十七万七千百四十七という大きな数から始め、三で割った値を足したり引いたりして音の相対的な値を順に求める方法で行われ、最終的な比は十七万七千百四十七対十七万六千七百七十六と示された。また月の光は太陽の光の反射であるとする説を支持し、日食や月食の仕組みも正しく説明したと伝えられる。音楽を扱う役所の官に任じられたという記録もあり、彼の名で伝わる易占の書には、卦の各爻を暦の要素に対応させる方法が記されているという。

初元4年(紀元前45年)、京房は孝廉に推挙されて郎となった。永光・建昭年間の羌の反乱や日食などを予言する上書をし、しばしば予言を的中させたので、元帝は喜んだ。元帝に面会した京房は、いにしえは功績によって賢者を推挙したのでよく治まったが、末世は褒貶によって人を選ぶので業績が廃れ災異がもたらされる、百官に功績を試験させれば災異もやむだろうと進言した。元帝は詔を下してこれを京房にやらせ、京房は官僚の評定法を上奏した。ところが、大臣たちとの議論では、みなその評定法は煩瑣であり、上下を互いに監視させるものだとして認めなかった。刺史たちも反対した。御史大夫の鄭弘と光禄大夫の周堪だけは、最初は反対していたが後に賛成に回った。

当時は中書令の石顕が権力を握っており、その友人の五鹿充宗は尚書令であった。五鹿充宗は京房と同じく『易経』を修めていたが、互いの論を非難し合う仲だった。京房はまた元帝に対し、斉の桓公と秦の二世皇帝を引き合いに出して石顕を批判した。元帝は評定法を試すため、これを熟知する弟子の名を出させた。京房を憎む石顕と五鹿充宗は、京房を遠ざけようとして、試しに郡太守にするよう建言した。元帝は京房を秩八百石の魏郡太守とし、そこで評定法を用いることを許した。京房は、刺史に属さないこと、他郡の人間を部下に招くこと、秩千石以下の官を自分で評定すること、毎年上奏することを請い、許された。

大臣に反対される中で朝廷を離れることになった京房は、憂え、恐れた。淮陽王劉欽の外戚の張博は京房に『易経』を学び、京房は娘を嫁がせていた。京房は自分の災異説や元帝との密談の内容を記し、張博を通して淮陽王に与え、淮陽王から進言させて自分の助けにしようとした。しかしこのことを石顕に掴まれ、京房が朝廷を離れると告発されて、京房も張博も獄に下された。建昭2年(紀元前37年)、二人は処刑され(京房は市で斬首されたともいう)、家族は辺境へ配流された。なお、梁丘賀に『易経』を教えた太中大夫の京房は別人である。京房の名で残る『京房易伝』は、『漢書』五行志にしばしば引用される『京房易伝』とはまるで一致せず、『漢書』の引用のほうが信頼できるとされている。

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