伝記
アレクサンドリアのデメトリオス一世は、アレクサンドリア教会の第12代の主教(総主教)である。没年は232年10月22日とされ、在位は189年から232年までともいわれる。後世にはカトリック、正教会、コプト教会で聖人として敬われている。
もとは農夫で、妻とともに47年のあいだ禁欲の生活を送っていたとされる。コプト教会の聖人伝によれば、病床にあった前任の総主教ユリアノスは、季節外れのぶどうの房を携えた人物が後継者になるという幻を見た。翌日、デメトリオスという農夫がぶどうの房を持って祝福を求めに訪れ、そのまま次の主教として告げられたという。就任の時期については、アフリカヌスがコンモドゥス帝の治世第10年とし、エウセビオスはセプティミウス・セウェルス帝の治世第10年としており、後者は誤りだとする見方もある。在任中にはセウェルスによる迫害がエジプトにも及んだ。また、エジプトの町に最初の三人の主教を叙階したのも彼とされ、教会の位階を整えた働きから、アレクサンドリア教会の第二の創設者、エジプト教会の創設者とみなされている。
デメトリオスは、教会の断食や祝祭の日を定める固定した暦をつくろうとした。大都市の主教として復活祭の日の算定をめぐる論争にも加わり、その算定法を最初に適用した人物とされ、その布告はのちにニカイア公会議(325年)で承認された。東方諸教会は今もアレクサンドリアの方式に従っている。ヒエロニムスは、デメトリオスがパンタイノスをインドへの宣教に送ったと述べたが、クレメンスはデメトリオスの就任前にすでに教理学校の長を継いでいた可能性が高い。203年ごろクレメンスがアレクサンドリアを去ると、デメトリオスは18歳だったオリゲネスをその後継に任じた。
当初デメトリオスはオリゲネスを支え、その学識を高く評価したといわれる。オリゲネスをアラビアへ送ったのも、その地の総督がアレクサンドリアの長官への書簡で訪問を求めたためである。215年にカラカラ帝がアレクサンドリアを略奪すると、オリゲネスはカイサリアへ逃れ、パレスチナの主教たちに請われて説教を行った。デメトリオスは、信徒にすぎない者の説教は教会の規則にかなわないと叱責した。エルサレムのアレクサンドロスとカイサリアのテオクティストスは、信徒が説教をした先例を挙げて擁護したが、デメトリオスはオリゲネスを呼び戻した。
230年、オリゲネスはアカイアでの争いを収めるために派遣され、パレスチナ経由で出発した。その途中、カイサリアで司祭に叙階された。これを知ったデメトリオスは、自分の支配からの離脱だと受け取り、両者の関係は悪化した。232年に教会会議を招集してオリゲネスを追放し、その行いを非難する書簡を各地の教会に送った。ローマはこの決定を受け入れたが、カイサリア、フェニキア、アラビア、アカイアは受け入れなかった。カイサリアのオリゲネスは自己弁護の書簡を送り、デメトリオスを非難した。フォティオスによれば、デメトリオスは他のエジプトの主教たちとともに、オリゲネスの叙階を無効とし、司祭の資格を失ったと宣告したという。単なる叙階の問題ではなく個人的な嫉妬が背景にあったとする見方もある。デメトリオスは最後に、教理学校をオリゲネスの協力者だったヘラクラスに任せた。これが主教としての最後の務めだったかもしれないとされる。主教として42年間教会を治め、105歳で世を去ったと伝えられる。