伝記
マリウス・マクシムス(ルキウス・マリウス・マクシムス・ペルペトゥウス・アウレリアヌス)は、160年頃に生まれ230年頃に没したとされるローマの伝記作家であり、セウェルス朝期に最も成功した元老院議員の一人である。3世紀初めの数十年に、スエトニウスを模倣し継承する形で、12人の皇帝の伝記をラテン語で著した。
碑文から知られる経歴の人物と同一人物だとほぼ認められている。家はアフリカの出身かもしれず、元老院身分ではなかった。父ルキウス・マリウス・ペルペトゥウスはガリアの騎士身分の財務官で、息子を元老院身分に入れさせた。マクシムスは新参者として出発したことになる。経歴はマルクス・アウレリウス帝の時代に始まり、第22軍団プリミゲニアの軍団副官を務め、178年から180年ごろには第3軍団イタリカで同じ職にあった。182年か183年ごろに首都財務官となって、平民護民官の候補に挙げられた。コンモドゥス帝のもとで元老院議員となり、法務官格に加えられた。190年ごろにはラティナ街道の管理官を務めた。
193年にセプティミウス・セウェルスが権力を握ったとき、彼はドナウ河下流の第1軍団イタリカの軍団長で、ペスケンニウス・ニゲルとの戦いに加わった。193年から196年の間にはモエシアとビュザンティオンの軍指揮官となった。197年にはモエシアとルグドゥヌムの軍指揮官としてルグドゥヌムの戦いでクロディウス・アルビヌスと戦い、その後ガリア・ベルギカ総督に任じられ、おそらく199年まで務めた。199年か200年ごろに補充執政官として最初の執政官職に就き、続いて下ゲルマニア総督、おそらく205年から208年までコイレ・シリア総督を務めた。213年から217年にかけては、執政官経験者として初めてアシア属州とアフリカ属州の総督を続けて務めた。順序は確かでないが、アフリカが213年か214年から、アシアが215年から216年とみられる。どちらか一方でも元老院議員の経歴の頂点とされたので、両方の就任は前例がなく、アシアを2年続けて務めたことも異例で、カラカラ帝から厚く信任されたことを示すとされる。カラカラの暗殺後もマクリヌスにより218年から219年までローマ市長官となった。エラガバルス帝の治世には官職がなかったが、アレクサンデル・セウェルス帝のもとで223年に二度目の執政官となった。クリスティアン・セッティパニは、歴史家カッシウス・ディオの姉妹カッシア・マルキアナが妻で、232年の執政官となった同名の息子がいたと考えている。
伝記は『カエサルたち』という題だったらしい。書かれた時期は確かでないが、経歴の終わりごろと考えられる。スエトニウスの『皇帝伝』の続編として、ネルウァからエラガバルスまでの12人の治世を扱ったようだ。少なくとも七つの治世を権力のある立場で体験した目撃者であり、同時代のディオのように歴史を書くこともできたが、彼は逸話的で軽薄とさえいえる伝記の形を選んだ。皇帝の私生活の醜聞や辛辣な論評を並べてスエトニウスをしのごうとしたらしく、書簡や元老院決議の引用の一部は創作だったようだ。その著作はヒエロニュムスやアンミアヌス・マルケリヌスから批判された。
著作は失われたが、4世紀後半にも読まれており、『ヒストリア・アウグスタ』の著者が少なくとも26回直接引用したほか、多くの箇所で用いたとみられる。センセーショナルではあっても有益な情報を多く含んでいたはずで、エラガバルスの暗殺を詳しく描く『ヒストリア・アウグスタ』の記述は、彼に由来すると一般に考えられている。
同じ年に亡くなった人物
- 鍾繇 (230年没)
- 聖セシリア (230年)
- アイリアノス (230年代没)
- レムノスのピロストラトス (230年)
- ウルバヌス1世 (ローマ教皇) (230年没)
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