伝記
高宗は唐の第3代皇帝で、諱は治という。628年7月21日に生まれ、太宗の第9子、長孫皇后の第3子にあたる。母の兄は重臣の長孫無忌である。631年に晋王とされ、633年には并州の長官に任じられたが、赴任せず都の長安にとどまった。636年に母が亡くなると、そのとき示した悲しみようが太宗の心を打ち、以後、とりわけ寵愛を受けるようになったという。晋王の時代には、大叔母にあたる同安公主の勧めで、その夫である王裕の姪孫を妃に迎えた。
兄たちは皇太子の李承乾と魏王の李泰で、才能を愛された李泰が皇太子の座を狙って激しく争っていた。李承乾は将軍の侯君集らと太宗を倒す謀議を結んだが、643年に発覚し、廃された。太宗は一時は李泰を皇太子にしようとしたが、李承乾の失脚は李泰の策謀によるものと考えるようになる。長孫無忌が李治を推すと、李泰は李治を脅したが、太宗は李治が思い悩む様子を見てその脅しを知り、心を固めた。李泰を流罪とし、643年4月30日、李治を皇太子に立てた。太宗は長孫無忌ら三人の重臣を李治の補佐役とし、李勣を東宮の長に据え、学識ある劉洎、岑文本、褚遂良、馬周を側近として付けた。やがて太宗が崩じ、649年に即位する。その後、太宗に溺愛された異母兄の呉王李恪を擁立する動きが見られたため、長孫無忌は呉王に謀反の嫌疑をかけて自殺に追い込み、一族を処刑した。654年には万年宮への行幸中に洪水が起こり、夜に大水が玄武門を襲った。宿衛の兵が逃げ散るなか、薛仁貴が「天子の危急の時に、どうして死を恐れようか」と叫んで門に登り、宮中に危険を知らせたため、洪水が寝所にまで及んだ高宗は難を免れた。高宗はこの功を称え、薛仁貴を忠臣と呼んだ。
対外面では、父の代から続く領土の拡大が進んだ。663年の白村江の戦いでは倭と百済の遺民の連合軍に勝利し、666年には泰山で新羅王や倭王らを従えて封禅の儀を行った。668年には新羅と組んで、隋以来の敵であった高句麗を滅ぼし、安東都護府を置いて、唐は最大の版図を得たとされる。しかし後に新羅が同盟を破棄し、676年に朝鮮半島全土の統一を果たしたため、唐は半島の経営を手放すことになった。670年代には、獲得した領土の多くがチベットや新羅、契丹、渤海に奪われ、突厥の旧領でも反乱が繰り返された。
治世の後半、実権は皇后の武則天に移っていった。武氏の一派は外戚の長孫氏を追放し、武則天は660年11月ごろから政治の一部を握り、665年1月以降は完全に掌握したとされる。高宗は武則天の廃位を計画したが失敗に終わった。一方で、丹薬の中毒で眼病を患い、さらに病で倒れたこともあって体調を崩し、政務を委ねるようになったともいわれる。内外では高宗と武則天が「二聖」と呼ばれた。高宗は在位中、病気がちで主導権を発揮することが少なく、はじめは長孫無忌に、のちには武則天に実権を握られ続けたといわれる。武則天がどこまで強い影響力を及ぼしたのか、対等な協力者だったのかについては、史書から現代の研究者までの間で議論がある。
683年12月27日、高宗は崩御し、乾陵に武則天とともに葬られた。子には、皇太子の李弘、李賢、のちに第4代・第6代皇帝となる中宗の李顕、第5代・第8代皇帝となる睿宗の李旦、太平公主らがいる。死後、武則天は皇太后として朝廷を主宰し、のちに中国史上ただ一人の女帝となった。
同じ年に亡くなった人物
- ジャヴァンシル (683年)
- レオ2世 (ローマ教皇) (683年没)
- ヤズィード1世 (683年没)
- ザイナブ・アルハスヘミ (683年(推定))
- キニチ・ハナーブ・パカル1世 (683年没)