HISTORICAL PERSON · 215年没

アレクサンドリアのクレメンス

2世紀から3世紀のキリスト教神学者で、ギリシア教父の一人。アテナイ出身と考えられ、アレクサンドリアで学校を開いた。ロゴスはキリストとするロゴス・キリスト論で、ギリシア思想とキリスト教神学を結びつけた。

生涯
215年没
死亡地
トルコ共和国(カイセリ県 / カイセリ)
出生地
ギリシャ共和国(アテネ)
出典
世界地図
トルコ共和国(カイセリ県)

伝記

アレクサンドリアのクレメンスは、二世紀から三世紀にかけて活動した初期キリスト教の代表的な神学者である。ティトゥス・フラウィウス・クレメンスの名でも知られ、生没年は150年ごろから215年ごろとされるが、生年を147年ごろとする推測もあり、確かなことは分かっていない。エジプトのアレクサンドリアで活躍したためこの名で呼ばれるが、エジプトの出身ではなく、ギリシアのアテナイの生まれと考えられている。ただしアレクサンドリア生まれとする伝承もあり、出生地も確定していない。ギリシア教父と呼ばれる一群の神学者に数えられ、弟子のオリゲネスとともにアレクサンドリア学派を代表する。

彼の生涯についてはほとんど知られていない。両親は異教徒で、クレメンス自身は後にキリスト教へ改宗した人物である。著作『ストロマテイス』の記述、流麗なギリシア語の文体、ギリシア古典への深い知識などから、アテナイの裕福な家庭に生まれて高等教育を受けたことがうかがえる。『プロトレプティコス』にはギリシアの宗教や密儀宗教についての詳しい知識が示されており、家の宗教を実践した経験に由来する可能性が指摘される。若くして異教の道徳的堕落に見切りをつけ、ギリシア、小アジア、パレスチナなどを旅して、各地の教師に学んだ。クレメンス自身によれば、南イタリアやシリア、パレスチナを経てアレクサンドリアに至り、キリスト教の教師パンタイノスに出会って師事した。到着は180年ごろとされる。パンタイノスの死後は、ディダスカレイオンと呼ばれるキリスト教教育の学校を開いて教えた。カイサレイアのエウセビオスは『教会史』で、オリゲネスもクレメンスに学んだと記している。彼が司祭であったかどうかははっきりしない。エウセビオスは「長老」と記すが、それが教会の職階なのか敬称なのかが不明だからである。

202年から203年にかけてのセプティミウス・セウェルス帝の迫害のさなか、アレクサンドリアを離れ、カッパドキアに逃れたといわれる。211年には、エルサレムのアレクサンドロスが、彼をアンティオキアの教会に推薦する書簡を書いた。没した場所は不明である。

彼の思想の特徴は、ギリシア哲学と文学がキリスト教へ人々を導くために存在したと考え、その遺産をキリスト教に継承しようとしたところにある。プラトンとギリシア思想に精通した彼ならではの発想で、ロゴスはキリストであるとする「ロゴス・キリスト論」は、ギリシア思想とキリスト教神学を結びつけ、後の神学の発展に大きく貢献した。ユスティノスがロゴス論を異教徒にキリスト教の真理を示すために用いたのに対し、クレメンスはキリスト教徒が哲学の持つ真理性を理解するために用いた点が異なる。また、ギリシア哲学はヘブライ人の書物から教説を盗み取ったと述べた。

著作は、旧約・新約聖書だけでなく、ギリシアの哲学者、詩人、劇作家、歴史家の引用に満ち、博学ぶりを示す。主な作品は、『プロトレプティコス(ギリシア人への勧告)』『パイダゴーゴス(訓導者)』『ストロマテイス(綴織)』である。『プロトレプティコス』は195年ごろの作で、異教徒にキリスト教を勧め、ギリシアの神々を偽りで道徳的な手本にならないと批判し、神々への崇拝が生まれた過程を七つの段階で説く。『ストロマテイス』は198年から203年ごろの作で、グノーシス主義の教師バシレイデースへの反論も含まれ、第七巻では異端を論駁する。西方のカトリックでは1586年に教皇シクストゥス五世が殉教録から名を除くまで崇敬された。

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