伝記
ガギク2世は、アルメニアのバグラトゥニ朝の王族で、アニを都とする王家に生まれた。祖父ガギク1世が1020年に死ぬと、その長男ホヴハンネス=スムバトと弟アショトの間で王位争いが起こった。ヴァフラム・パフラヴニらの仲介によって、アニと周辺を兄が、残りを弟が治め、兄の死後には弟またはその息子が全土を継ぐという和議が結ばれた。しかし、1022年のトレビゾンドでの交渉では、東ローマ皇帝バシレイオス2世がアニ王国の引き渡しを要求した。東ローマ寄りのカトリコス、ペトロスの圧力を受けたホヴハンネス=スムバトは、自らの死後に王国を譲る遺言を皇帝へ送った。
ガギクはアショトの子として1024年頃に生まれた。幼少時から書物を学び、旧約・新約聖書にも通じた教養ある青年とされる。アニの宮廷には図書の収集があり、教会の中心であるカトリコスのもとにも蔵書があった。王国では東ローマへの譲渡を約した遺言が住民の反発を招き、帰国したペトロスは投獄されて1037年まで拘束された。王家の継承合意と皇帝への譲渡の約束が並び立つ中、1041年に父アショト、次いでホヴハンネス=スムバトが相次いで死去した。
東ローマ皇帝ミカエル4世は遺言に基づいてアニを獲得しようと軍隊を送り込んだが、ヴァフラム・パフラヴニが約三万の兵を率いて侵攻を退けた。東ローマの官位を持つ貴族サルギスは王家の財宝を押さえ、住民の反感を買った。これに対してヴァフラムがガギクを王に推し、若い王が擁立された。即位は1041年とも1042年ともされる。王国は東ローマ軍だけでなく、ドヴィンを治めるアブル=アスワル・シャーヴルとも対峙した。1041年8月半ばにはガギクの率いる軍がドヴィン周辺へ進出した後、退却したとされる。
同月末、王国領へ侵入したセルジューク軍約二万に対し、グリゴル・マギストロス・パフラヴニは約一万の軍を率いてビニの要塞で勝利し、敵の司令官を捕らえた。続く9月初めには、アニの王位を求めるロリ王ダヴィト1世が約一万の軍でアニ周辺へ侵入したが、目的を果たさず退いた。ガギクの王国は、こうした複数の勢力による攻撃を受けながら存続した。そのアニでの治世は1045年までとされ、バグラトゥニ朝の最後のアルメニア王となった。没年は1079年ともされる。
同じ年に亡くなった人物
- エルマンガルド=ブランシュ・ダンジュー (1076年没)
- スヴェン2世 (デンマーク王) (1076年没)
- ゴットフリート4世 (下ロートリンゲン公) (1076年没)
- ウォルシオフ (ノーサンブリア伯) (1076年)
- イブン・ハイヤーン・クルトゥビー (1076年没)
同じ地域に関係する人物
- カエサリアのドロテア (311年没)
- Basri Dirimlili (1997年没)
- 聖ママス (275年没)
- ジャザリー (1206年没)
- ムハンマド・アミーン・ブグラ (1965年没)