伝記
デキムス・クロディウス・アルビヌスは、ローマ帝国の軍人であり、皇帝を自称した人物である。生年は150年頃とされ、197年2月19日に没した。193年の「五皇帝の年」にセプティミウス・セウェルスと帝位を争って敗れた。敗者となったため、その生涯についての記録は乏しく、しかも疑わしいものが多い。セウェルスの宣伝による中傷や、元老院側の歴史家による歪曲が反映されているのだろうと考えられている。とくに『ヒストリア・アウグスタ』の伝記は、偽りや作り話が多いことで知られる。
出身地は、ローマ属州アフリカのハドルメトゥム(現在のチュニジアのスース近郊)とされる。これも『ヒストリア・アウグスタ』の記述によるもので、歴史家アンドレ・シャスタニョルは、この出自が完全に確実とはいえないと指摘している。長く確実視されてきたが、名前を詳しく調べると、北イタリアに結びつく元老院階級の一族との関係が考えられるという。ヘロディアノスやカッシウス・ディオといった歴史家の記述からは、元老院階級の家の出であり、180年代初めにはダキアで、のちに同じく皇帝を称するペスケンニウス・ニゲルとともに軍務に就き、執政官を務めたのは185年から187年頃と推測される。マルクス・アウレリウス帝の治世から頭角を現し、コンモドゥス帝の時代にはブリタンニア総督になったとも伝わる。この属州は三個軍団を擁する有力な地位であったが、軍団は前の数年間、動揺して規律を欠いていた。ブリタンニアの統治は成功に終わり、現地の軍団から強い支持を得ていたという。
193年初め、ローマでディディウス・ユリアヌスが帝位を簒奪したことを知ると、アルビヌスは反旗を翻した。ただし、軍団が差し出した皇帝の称号は断ったという。ドナウ川の軍団とともに挙兵したセウェルスが元老院に皇帝と認められると、セウェルスは、まずシリアで反乱を起こしていたペスケンニウス・ニゲルを倒そうと考えた。そこで、ブリタンニアにとどまるアルビヌスと手を結び、副帝(カエサル)の称号と「セプティミウス」の名を与え、194年の執政官も同僚とした。ローマでは、その提携を示す貨幣も鋳造された。
しかしニゲルを倒して東方を平定すると、セウェルスは態度を変え、アルビヌスと同盟を解消して敵視するようになった。アルビヌスも自分が排除されようとしていることを察し、195年には自らアウグストゥス(正帝)を称して、セウェルスへの反乱の姿勢を明らかにした。軍勢を率いてガリアに渡り、ルグドゥヌム(現在のフランスのリヨン)に拠って、ブリタンニア、ガリア、ヒスパニアを押さえた。セウェルスの軍はジュラ山脈を越えてガリアに入り、アルビヌスはトゥルニュで敗れ、さらに197年2月19日、ルグドゥヌム近郊での戦いで再び敗れた。この戦いは、ローマ帝国史上でも最大規模の内戦のひとつで、両軍合わせて十数万の兵が加わったともいわれる。当初はアルビヌス軍が優勢だったとも伝えられるが、結局セウェルスが勝ち、アルビヌスは敗死した。捕らわれるのを避けて自ら命を絶ったとする記述もある。首はセウェルスのもとへ送られ、遺体は辱められ、一族も処刑されたと言われている。リヨン周辺で見つかった貨幣の埋蔵物や兵士の骨は、戦闘の激しさと、アルビヌス軍の崩壊を示すものとされる。
元老院に認められなかったため、アルビヌスは正統な皇帝の列には入っていない。その敗北は、セウェルスが唯一の支配者の地位を固める転機となった。
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