HISTORICAL PERSON · 紀元前157年没

文帝 (漢)

前漢の第5代皇帝で高祖劉邦の四男。代王から呂氏の乱の後に擁立され、民力の休養に努めて減税や肉刑の一部廃止を行った。景帝の代と合わせて「文景の治」と称され、中国史上の名君の一人とされる。

生涯
紀元前157年没
死亡地
—
出生地
斉 (黄巣)(陝西省 / 長安)
出典
世界地図
斉 (黄巣)(陝西省)

伝記

文帝(劉恒)は、前漢の第5代皇帝である。恵帝の子とされる二人の少帝を除いて数え、第3代皇帝とする場合もある。高祖劉邦の四男で庶子にあたり、生母は薄氏、妻に竇猗房がいる。中国史上の名君の一人とされ、後の歴史家が時代を論じるときの善い例にあげられてきた。

薄氏は戦国時代の魏王室出身の女性を母とし、秦末の動乱期に西魏王魏豹の後宮に入った。人相見の許負が、いずれ皇帝を産むと予言したと史書は伝える。魏豹が漢に背いて韓信に敗れると、薄氏は劉邦の後宮に入って雑用に従事したが、ある日劉邦の目に留まって寝所に召され、劉恒を産んだ。その後はほとんど劉邦と関係を持たなかったと言われる。劉邦が皇帝になると、劉恒は趙国に移った異母兄劉如意の後任として代王に封じられた。幼かったため、劉邦の信任を受けた傅寛が丞相として後見し、劉恒は母の薄氏や叔父の薄昭とともに代国へ赴き、そこで成長した。

劉邦の死後は呂雉が皇太后として実権を握り、劉如意ら高祖の庶子を次々に殺害したが、劉恒は難を逃れた。背景には、母の薄氏が戚夫人などと違い、劉邦に寵愛されることが少なかったことがあると考えられている。趙共王劉恢が自害すると、呂后は劉恒を後任に移すことを検討したが、劉恒は異母弟たちが呂后に殺されたことを理解しており、代国は匈奴に近く防衛が重要だからと上啓して辞退した。趙王には呂后の甥の呂禄が封じられた。

紀元前180年に呂雉が死ぬと、陳平・周勃ら建国の元勲と、高祖の孫である斉王劉襄・朱虚侯劉章らが呂氏一族を滅ぼした。次の皇帝としては、功のあった劉襄も考えられたが、強い外戚を持つ者を立てれば再び専横が起こるという危惧があった。そこで、権力欲が少なく人格者と評判の高い薄氏を母に持ち、高祖の遺児で最年長でもある劉恒が擁立された。代国では元勲を信用できないとして即位に反対する声があり、使者が長安と代国を5度往復して、ようやく即位が決まった。長安へは、わずかな側近と6騎の馬車だけで入ったという。即位直後は元勲との関係もなめらかでなかったが、元勲が引退すると、代王時代以来の臣下を登用して主導権を確保し、政治改革を進めた。

施政の基本は高祖以来の政策を継ぐもので、民力の休養と農村の活性化にあった。大規模工事は急ぐもの以外は止め、楼閣の建設計画も、費用が中流家庭10戸の資産に相当すると知って中止させた。自分の陵墓も高祖や恵帝より小さくした。減税はたびたび行われ、田租がすべて免除された年もあった。刑法では斬首と去勢を除く肉刑を廃止した。母に孝を尽くし、自ら毒味役を務めたことから、後世に二十四孝に数えられた。周勃が冤罪で逮捕されたときには、薄氏に叱られて釈放を命じ、臣下の諫めにもかかわらず計画していた匈奴との戦争も、薄氏の説得で取りやめた。諸侯王には穏やかに接し、後継ぎがなくて断絶するはずの場合や謀反で廃される場合にも、血縁者を探して領地を分け、諸侯の地位を残した。これは後の呉楚七国の乱の原因になったと批判される一方で、分割によって反乱側の意思統一が難しくなり、早期鎮圧につながったともいえる。周亜夫や袁盎のように正直すぎて無礼にも見える者も咎めず、高く評価した。子の皇太子劉啓(後の景帝)にも、何かあれば頼れと遺言した。その治世は景帝の代と合わせて文景の治と称えられ、穀物が倉で腐り、銭差しの紐が腐って勘定できなくなったという逸話が残る。文帝後7年(紀元前157年)に崩御した。

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