HISTORICAL PERSON · 846年没

武宗 (唐)

唐の第18代皇帝。宦官抑制に努めたが道教に傾倒し仏教弾圧『会昌の廃仏』を断行した。

生涯
846年没
死亡地
斉 (黄巣)(陝西省 / 長安)
出生地
金(長安)
出典
世界地図
斉 (黄巣)(陝西省)

伝記

武宗は、唐の第18代皇帝である。穆宗の五男とされ、初めの名は李瀍、のちに炎と改めた。814年7月2日、皇太子であった父の李恒(のちの穆宗)のもと、東宮で生まれた。母は韋氏で、その位は史書に残らなかったとされる。821年に穆宗が兄弟や子らを王に封じた際、潁王となった。

穆宗の後、兄の敬宗、文宗が相次いで帝位に就いたが、潁王の動静は多く伝わっていない。文宗の開成年間の半ばには、開府儀同三司と吏部尚書の名誉職を与えられた。口数が少なく聡明で決断力があり、感情を表に出さない人だったといわれ、文宗は安王李溶とこの弟を、ほかの親王より厚く遇したという。文宗は子の李永を皇太子に立てたが、838年に李永が亡くなると後継を決めかね、愛妾の楊賢妃は李溶を推した。しかし宰相の李珏が反対し、839年、敬宗の末子である李成美が陳王から皇太子に立てられた。

840年の初め、文宗が重病になると、側近の宦官は宰相の楊嗣復と李珏を呼び、李成美を託そうとした。ところが相談を受けなかった有力な宦官の仇士良らがこれに反対し、李珏の異議を押し切って、文宗の名で偽の詔を作り、李成美は幼いとして廃し、代わりに李瀍を皇太弟に立てた。兵に守られて王邸から宮中に入った李瀍は、文宗の死後、仇士良らに促されて楊賢妃、李成美、李溶に自殺を命じた。短い喪の後、李瀍は即位した。これが武宗である。

即位した武宗は、李徳裕を宰相に登用して深く信任し、宦官勢力の抑制や中央集権体制の立て直しに努めた。ウイグルの残党による侵入や劉稹の反乱にも対処して成果を挙げたとされる。一方、道教に深く傾き、道士の趙帰真を信任した。仏教は唐代に大きな勢力となり、寺院は税を免除されていたため、武宗は仏教が国家財政の負担になっていると考えたという。842年の詔でまず僧尼のうち妖術を行う者や罪人を還俗させ、還俗しない僧尼には財産を官に納めさせた。この段階では、仏教制度を改め社会を守るという儒教的な議論が中心だった。

廃仏は845年に頂点に達し、寺院の財産は没収され、4,600の寺と4万の小寺が壊され、26万500人の僧尼が寺を去らされたとされる。これが「会昌の廃仏」である。背景には、寺院が広大な荘園を持ちながら無税であったこと、仏像や仏具に大量の銅を使い銅銭不足を招いていたことなど、経済上の問題があったという評価がある。ただ、熱心な道教徒の武宗は仏教を中国に有害な外来の宗教とみなしており、理由は経済だけではなかったとも説かれる。皇位を争った叔父の李怡(のちの宣宗)が身の安全を図って仏教を利用したことも、攻撃の一因とする説がある。弾圧は景教、マニ教、ゾロアスター教にも及び、日本の天台僧円仁もその影響を受けた。武宗は道教の儀礼を整え、宮中に望仙観を建てて道教を盛んにもしたが、衰退する唐を立て直すには至らなかった。会昌6年(846年)、武宗は丹薬による中毒のため33歳で崩御した。死の間際に名を炎と改めている。後の宣宗の時代に仏教は復興したが、景教、マニ教、ゾロアスター教は中国で再び大きな役割を果たすことがなかったという。後宮には鄭皇后のほか王淑妃、劉徳妃らがおり、杞王李峻、益王李峴、兗王李岐、徳王李嶧、昌王李嵯の5人の男子と、昌楽公主をはじめとする7人の公主が伝わる。2009年の香港のテレビドラマ「宮心計」には武宗が登場し、2021年の中国ドラマ『与君歌』にも武宗をモデルとした人物が現れる。

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