伝記
ルキウス・ユリウス・カエサル(紀元前90年の執政官)は、紀元前135年頃に生まれ、紀元前87年に没した共和政ローマ期の政務官である。父は同名のルキウス・ユリウス・カエサル、母はポピッリウス氏族出身のポピリアで、同盟市戦争のさなかにラテン人と同盟市への市民権付与に関するユリウス法を通過させた人物として知られる。ウォピスクスは弟とされ、異父兄のカトゥルスとも温かい関係にあったとされる。若い頃の経歴では、紀元前100年にローマの護民官ルキウス・アップレイウス・サトゥルニヌスの反乱を鎮めた元老院議員の一人であったとされる。紀元前95年(紀元前94年とする説もある)にプラエトルに選ばれたが、その際には財務官も造営官も経ていなかったといわれる。翌年にはプロコンスルとしてマケドニアを担当した。
紀元前90年、同盟市戦争が最も激しい時期に、プブリウス・ルティリウス・ルプスとともに執政官に選ばれた。戦域が広いため、ローマは反乱側の地域を二つに分け、ルティリウスは北方のピケヌム人やマルシ人などを、カエサルはサムニウム人やカンパニア人などイタリア南部の諸民族を相手にすることになった。副官にはスッラ、クラッスス、ティトゥス・ディディウス、マルクス・クラウディウス・マルケッルスらが付いた。最初の戦いではサムニウム軍の将ティトゥス・ウェッティウス・スカトに敗れ、カエサルはアエセルニアへ逃れた。この町はローマに忠実であり続けた都市である。その後ガリア人やヌミディア人の補助兵を得て反攻に転じ、ガリア人に包囲されていたカンパニアのアケッラエ付近で敵を破った。ところがヌミディア兵に脱走者が多く出たため、残りを疑って彼らをアフリカへ送り返した。サムニウムの将ガイウス・パピウス・ムティルスはこれに望みをつないでローマ軍の陣営を襲ったが、撃退されて多くの損害を出した。
この勝利にローマは沸いたが、攻勢は続かなかった。カエサルはアケッラエの包囲を解けないまま退き、同僚のルティリウスはウェッティウス・スカトに敗れて戦死した。カエサル自身もアケッラエ救援をもう一度試みた際に、マリウス・エグナティウスに大敗を喫した。こうした敗北に加え、ポントス王ミトリダテスとの戦争への不安、同盟市が公然と離反することへの恐れから、カエサルはローマに忠実だったラテン人と同盟市にローマ市民権を与えるユリウス法を提案し、可決させた。この法には、各同盟国が市民権を受けるかどうかを選べる規定があったらしく、連邦国としての地位を好んで受け入れなかった同盟市も多かったという。
紀元前89年には指揮権が延長され、大きな勝利を収めてアスクルム包囲戦にも加わったが、病のため包囲を離れ、指揮をガイウス・ビビウスに譲ったと考えられている。この年、プブリウス・リキニウス・クラッススとともにケンソルに選ばれた。二人はおそらくマルクス・アエミリウス・スカウルスを元老院第一人者に再指名し、国勢調査の完了を示す清めの儀式を行ったようだが、調査そのものは未完に終わった。新市民は既存の35部族ではなく新設の10部族に登録されたと伝えられる。またイリオスの税を免除した。
紀元前87年、ガイウス・マリウスとルキウス・コルネリウス・キンナの一派がローマを占領すると、カエサルは弟のウォピスクス、弁論家マルクス・アントニウスらとともに殺害され、リウィウスによれば首は演壇に晒された。子には、のちの紀元前64年の執政官ルキウス・ユリウス・カエサルと、ユリアがいた。ユリアはマルクス・アントニウスの母である。
同じ年に亡くなった人物
- グナエウス・ポンペイウス・ストラボ (紀元前87年没)
- Gauda (紀元前87)
- クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス (紀元前87年没)
- グナエウス・オクタウィウス (紀元前87年の執政官) (紀元前87年没)
- ルキウス・コルネリウス・メルラ (紀元前87年の補充執政官) (紀元前87年没)
同じ地域に関係する人物
- マルコ・パンネッラ (2016年没)
- カール・ユリウス・ベロッホ (1929年没)
- レナート・カステラーニ (1985年没)
- パウル・ブリル (1626年没)
- プラウトゥス (紀元前184年没)