伝記
ティベリウス・センプロニウス・グラックスは、共和政ローマの政治家で、グラックス兄弟の兄である。紀元前163年に大グラックスとコルネリア・アフリカナの子として生まれたとされるが、生年は前168年から前163年の間で、確かな日付は分からないともいわれる。母方の祖父は大スキピオで、姉妹はスキピオ・アエミリアヌスに嫁いだ。執政官を出した名門の家柄に属し、弟にガイウス・グラックスがいる。
軍人としての経歴は、紀元前147年にスキピオ・アエミリアヌスのもとで第三次ポエニ戦争に参加したことに始まる。カルタゴの城壁を最初に乗り越えたとされ、勇敢さと規律の高さで知られたという。紀元前137年には財務官として、執政官マンキヌスとともにヌマンティア戦争に従軍した。マンキヌスの軍は敗北を重ねたが、ティベリウスは自ら主導してヌマンティア人と和睦を結び、多くの将兵の命を救った。父がかつてヒスパニアで現地の人々と協定を結んだことを持ち出して交渉したとも伝わり、陣営の略奪で会計帳簿を失った彼をヌマンティア人が宴に招いて返還し、戦利品も好きに持ち帰るよう勧めたが、儀式に必要な少量の香だけを受け取ったという逸話も残る。しかし、この和平は元老院に破棄された。モムゼンは、これが彼を反貴族的な行動へ向かわせた原因の一つではないかと述べている。
紀元前133年、ティベリウスは護民官に当選し、民会でセンプロニウス農地法を提案した。プルタルコスによれば、演説は人々を熱狂させ、反対派をも黙らせたという。法案の内容は、戦争の初期に徴集された公有地のうち、五百ユゲラ以上のものを没収するというものである。こうした土地は、大土地所有者が数世代にわたって購入や借用などの形で、事実上の私有地としていた例が多かった。ある意味で、紀元前367年のリキニウス法を実行に移すものともいえる。
土地所有者の多い元老院はこれに反発し、護民官の一人オクタウィウスを抱き込み、法案が出されるたびに拒否権を行使させた。ティベリウスは民会の投票でオクタウィウスを解任したが、護民官が護民官を解任した例は過去になく、平民の間にも反発を招いた。それでも法は可決された。次にペルガモン王アッタルス3世が王国をローマに遺贈すると、これを農地改革の財源にしようとし、元老院を通さず平民会でこの提案を通した。長く海外の問題を扱ってきた元老院には、衝撃的な挑発と受け取られ、対立は深まった。彼は集会で弁明し、再選運動の際には涙を流して支持を訴えたという。
選挙の日の朝、占いの結果は悪いものばかりで、家を出る際に扉に足をぶつけて怪我をしたと伝えられる。外出を控えるよう説得する従者を、「アフリカヌスの孫で護民官の自分が臆病者と罵られるわけにはいかない」と振り切り、護衛とともに広場へ向かった。アッピアノスによれば再選投票は初日に進まず二日目に延期され、反対派は粛清を叫んだ。スキピオ・ナシカが手勢を率いて民会に乱入し、ティベリウスを殺したとされ、遺体はティベリス川に投げ込まれたという。その遺志は十年後に護民官となった弟ガイウスに継がれた。ガイウスは元老院最終勧告によって「共和国の敵」と宣言され、追っ手が迫ると配下の奴隷に自分を殺させて生涯を閉じた。兄の死から十一年後のことであった。グラックス兄弟以降、ローマは「内乱の一世紀」と呼ばれる時代に入ったといわれる。
同じ年に亡くなった人物
- アッタロス3世 (紀元前133年没)
同じ地域に関係する人物
- クロード・ロラン (1682年没)
- オラウス・マグヌス (1558年没)
- ジョージ・バーリング (1948年没)
- アミントレ・ファンファーニ (1999年没)
- コルネリウス・ネポス (紀元前25年没)