伝記
バル・コクバは、第二次ユダヤ戦争を指揮したユダヤ人の革命指導者である。バル・コフバ、バル・コホバとも表記され、本名はシモン・ベン・コスィバ(シモン・バル・コセバ)とされる。ナーシー(大公)として132年から135年まで在位し、救世主(メシア)を自称した。生年は不明で、135年に没した。
20世紀に発見された書簡の洞窟の文書には、彼の元の名がシモン・バル・コセバなどの形で記されている。この名は、父か出身地がコセバという名であったことを示すとみられ、ヒルバト・クワイジバが有力な候補とされる。エミール・シューラーは、出身地とされるホゼバ(おそらくケジブ)の村を指す名ではないかと考えたが、単なる家名の可能性もある。ヤコブ族の子として生まれたともいわれる。
131年、彼はエルサレムがアエリア・カピトリナとして再開発される計画を知り、同志を率いてローマ帝国に蜂起し、ユダヤの独立を宣言したとされる。ローマ側の総督はティネイウス・ルフスで、反乱はハドリアヌス帝の治世第16年に始まったとされる。当時のユダヤ教のラビの最高指導者と言われたラビ・アキバは、シモンのカリスマに打たれ、聖書が予言したユダヤの救世主であると宣言した。これを受けて聖職者たちも全面的に支援した。エルサレム・タルムードは、アキバが民数記24章17節の「ヤコブから一つの星が出る」という句を彼に当てはめたと伝える。星を意味するヘブライ語コーカーブと、コセバという名を結びつけたもので、「星の子」を意味するバル・コクバの名はここに由来する。ただし、この名はタルムードには現れず、16世紀まで教会側の文献にしか見えない。タルムードでは、バル・コゼバの名で言及される。
メシアの地位を認められた彼は、ユダヤ国の大公に即位し、アキバの補佐のもとでユダヤを奪還した。エルサレムの統治を示す貨幣も発行し、その銘には「エルサレムの自由のために」とあった。当時の多くのユダヤ人にとって、この事態は待ち望まれたメシアの時代の到来を告げるものだった。蜂起の初期、ローマ軍は結束したユダヤ軍の前に苦戦した。彼は、加わらないユダヤ人を罰したという。ローマ軍は数で劣り、大きな損害を出したが、やがて焦土作戦をとり、ユダヤの人々の戦意を少しずつ削いだ。エジプトやブリタニアなど遠方からも軍隊が呼び寄せられ、ユダヤ国の支配地域は次々と再征服された。最終的にエルサレムは陥落し、彼は要塞を築いていたベタルへ退いて抵抗を続けたが、ここもローマ軍に包囲されて陥落した。135年、彼は戦死し、ラビ・アキバは処刑され、多くの高官も死刑となった。残った反乱者も翌年までに殺されるか奴隷にされた。カッシウス・ディオは、この戦争で58万人のユダヤ人が命を落とし、約50の城塞都市と985の村が破壊されたと記した。
ローマの勝利は犠牲が大きく、ハドリアヌス帝は元老院への報告で、慣例の「あなた方と子供たちが健康なら結構。私と軍団は健康である」という挨拶から始めなかったという。戦後、エルサレムは予定どおりローマ風の都市として再開発され、ユダヤ人は4世紀まで立ち入りを禁じられた。ユダヤ人はバル・コクバを「ほら吹き」と罵り、「欺瞞の子」を意味するバル・コゼバと呼んで揶揄するようになった。また、キリスト教徒が彼をメシアと認めなかったため、ユダヤ教とキリスト教の分離はさらに進んだ。
同じ年に亡くなった人物
- アキバ・ベン・ヨセフ (135年没)
- スミュルナのテオン (135年没)
- エピクテトス (135年没)
同じ地域に関係する人物
- イッザト・ガッザーウィ (2003年没)
- シーリーン・アブーアークレ (2022年没)
- ユーグ (シャンパーニュ伯) (1126年没)
- ダマスコのイオアン (749年没)
- バールーフ・ゴールドシュテイン (1994年没)