HISTORICAL PERSON · 749年没

ダマスコのイオアン

キリスト教の聖人でギリシャ教父の一人。アラブ人キリスト教徒の家に生まれ、聖伝では知事を務めたのち修道院に入った。聖像破壊運動に反対する論陣を張り、神学的著作や聖歌の作曲でも知られる。

生涯
749年没
死亡地
パレスチナ国(ウェストバンク / マル・サバ修道院)
出生地
シリア共和国(ダマスカス)
出典
世界地図
パレスチナ国(ウェストバンク)

伝記

ダマスコのイオアン(ヨアンネス)は、アラブ人キリスト教徒の家庭に生まれ、母語をアラビア語としたキリスト教の聖人で、ギリシャ教父の一人である。生年は676年頃とも650年頃ともいわれ、没年は749年12月4日、あるいは750年頃とされる。聖像破壊運動に反対する論陣を張り、ギリシャ語で神学的著作を残し、聖歌を作曲したことで知られる。日本正教会では「ダマスコの克肖者聖神父イオアン」と呼ばれる。

学問的には、その生涯についてわかっていることはきわめて少ない。エルサレム総主教ヨアンネスの作とされる『伝記』はあるが、伝説的な要素が多い。祖父サルグーンも父マンスールもビザンツ帝国の官吏で、636年以降はカリフの官吏を務めた。イオアンも父の協力者としてカリフに仕えたが、700年頃、第5代カリフ、アブドゥルマリクの反キリスト教政策が原因で引退し、エルサレムに近いマル・サバ修道院に入った。エルサレム総主教ヨアンネスによって司祭に叙階され、修道院で教え、エルサレムの聖堂で説教し、著述を行った。

正教会の聖伝は、これとは別に豊かな物語を伝えている。ただし聖伝の内容は歴史的事実の記述ではなく、概略を示したものにすぎない。それによると、父セルギイはイスラーム支配者に仕えて重職に就きつつ、息子にキリスト教の教育を熱心に施し、処刑されかかっていたところを助けたイタリア人の修道士を家庭教師とした。この教育によりイオアンは学問に秀でた者となった。父の没後、イオアンはダマスコの知事に抜擢されたという。

当時ビザンツ帝国では聖像破壊運動が行われており、イオアンがイコン擁護の手紙を信徒に送り続けたため、皇帝レオン3世は怒って抹殺を図ったとされる。イオアンが皇帝に内通したかのように見せかけた偽の手紙が支配者の手に渡り、イオアンは職を解かれて右手を切り落とされた。しかし生神女マリヤに祈ると右手が快復する奇蹟が起きたとされ、これに感謝して描いたのが『三本手の生神女』のイコンだという。無実を悟った支配者は復職を求めたが、イオアンは世俗の名誉から退いた。なお、右腕を切り落とされて聖母に癒されたという話や、イタリアから連行された修道士コスマスを家庭教師にしたという話は、学問上はいずれも伝説とされている。

聖伝によれば、イオアンは財産を貧しい人々に分け与え、親友コスマとともにエルサレムに巡礼してマル・サバ修道院に入った。弟子に迎えたのは一人の老修道士だけで、老師は謙遜を学ばせるため文章を書くことを禁じた。ある時、兄を亡くした修道士の願いに負けて慰めの詩を作ったところ、老師は怒って彼を追放したが、のちに赦して重労働を命じた。やがて夢に生神女マリヤが現れ、知識の泉を塞き止めてはならないと告げたため、老師は著作と詩作を許した。この詩は今日も正教会の埋葬式で歌われている。以後イオアンは神学書や聖歌を著し、イコン論争の再燃にあたっては反駁書を著し、マニ教徒やイスラーム教徒とも論争した。

その評価は生前から高く、787年の第2ニカイア公会議で尊者と宣言され、1890年にはカトリック教会で教会博士とされた。『知識の泉』は傑作とされ、正教会の聖歌の根幹をなす八調の編纂・作曲でも知られる。正教会、カトリック教会、ルーテル教会で崇敬され、記憶日は12月4日である。タネーエフやカリンニコフが同名の作品を作曲している。

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