伝記
シャンパーニュ伯ユーグは、1074年に生まれたとされる。生年は1077年ごろともいわれる。父はブロワ伯ティボー3世、母は自らバール=シュル=オーブ伯領とヴィトリー伯領を持つアデル・ド・ヴァロワで、ユーグは三男とも四男ともされる。父の死後、長兄エティエンヌ=アンリが父の称号の大半を継ぎ、次兄ウード4世がトロワ伯領を継いだ。ユーグは若く、相続にあずかれなかったらしい。1093年、ウード4世が妻も子もないまま死に、ユーグがトロワ伯となった。トロワ、バール=シュル=オーブ、ヴィトリーという、のちのシャンパーニュ伯領の核になる三つの伯領が、こうして彼の手に集まっていった。
同じ1093年、ユーグは母と兄フィリップとともに、ジュラ山地のサン=トワヤン修道院に宛てた文書に名を連ね、セルメーズ近くの広い土地を寄進して小修道院を建てさせた。1093年から1095年のあいだに、フランス王フィリップ1世の娘コンスタンスと結婚した。王は王妃ベルトを退けて人妻のベルトラドと暮らしており、教会はこの再婚を認めていなかった。この縁組は、有力なブロワ家を王の影響下に取り込む意味をもったとされる。ユーグは持参金としてアティニーの町を受け取った。二人にはマナセという一人息子が生まれたが、早世した。1094年には修道院への寄進を行い、これが伯家に伝わる最古の記録となった。1095年のクレルモン公会議で教皇が聖地の解放を呼びかけたが、ユーグは第1回十字軍に加わらなかった。1097年には宮廷の一行とともにモレーム修道院で復活祭を過ごし、もてなしへの礼として城とイスルの教会を与え、サン=ティボー小修道院をそこへ移させた。
母アデルは1093年から1100年のあいだに世を去り、ユーグは母のバール=シュル=オーブ伯領とヴィトリー伯領、エペルネの領主権を受け継いだ。長兄エティエンヌ=アンリは第1回十字軍に加わったが、エルサレム占領の前に帰国して臆病者との評判を得た。妻のアデルに説かれて1101年の春に再び聖地へ向かい、1102年のラムラの戦いで死んだ。イスラム教徒に捕らえられて首を斬られたとも伝えられる。ユーグはトロワ伯の名を好んだが、同時代の文書の多くは、子孫が好んだシャンパーニュ伯の称号で彼を記している。1115年、シトー会の修道士ベルナールに土地を寄進し、クレルヴォー修道院の創建を支えた。ベルナールはその修道院長となり、のちクレルヴォーのベルナルドゥスとして知られた。ユーグはモンティエラメ修道院とモレーム修道院の後援者でもあった。
ユーグは二度目にブルゴーニュ伯エティエンヌ1世の娘イザベルを妻とし、一人息子ウードをもうけた。1125年、ユーグは聖地での戦いのため三度目の出発をし、テンプル騎士団に入った。このとき騎士団は数十人の騎士からなり、団長は1114年にエルサレムで彼と一緒にいた家臣のユーグ・ド・パイヤンだった。ベルナールがこの年にユーグへ送った、愛情のこもった手紙が残っている。領地には妊娠中の妻と息子ウードが残された。後の史料によると、ユーグは自分が子を成せないと信じ、息子を認知しなかったという。代わりに甥のティボー2世に地位を継がせた。ウードの二人の息子は、のちに第4回十字軍で重要な役割を果たした。ユーグは1126年に没したともされる。
同じ年に亡くなった人物
- ギヨーム9世 (アキテーヌ公) (1126年没)
- コンスタンス・ド・フランス (1078-1126) (1126年没)
- ウラカ (カスティーリャ女王) (1126年没)
- オフリドのフェオフィラクト (1126年)
- エランブルジュ (メーヌ女伯) (1126年没)
同じ地域に関係する人物
- アブー・ウバイダ (639年没)
- ハバクク (紀元前600)
- Samiha Khalil (1999年没)
- バールーフ・ゴールドシュテイン (1994年没)
- 聖カリオン (350年没)