伝記
鄧綏(とうすい)は、後漢の和帝の2番目の皇后で、のちに事実上の最高権力者となった女性である。諡は熹で、夫の諡を重ねて和熹皇后と呼ばれる。南陽郡新野県の人で、81年に生まれた。祖父は太傅の鄧禹、父は鄧訓、母は光武帝の皇后陰麗華の従弟の娘である。兄に鄧騭がいる。
幼い頃は祖母の太傅夫人に可愛がられた。6歳で史書を学び、のちに『論語』や『詩経』なども誦したため、家族は彼女を「諸生」と呼んだという。12歳で『尚書』と『論語』を暗誦できたとも伝えられる。永元7年(95年)、15歳で和帝の後宮に入り、翌年に貴人となった。身長は7尺2寸、約165センチで、並外れた美貌に周囲は驚いたという。控えめで徳のある性格と聡明さで宮中の信頼を得て、和帝の深い寵愛を受けた。和帝が幼くして子を失い続けることを案じ、ほかの側室を勧めて後継ぎを得られるよう気を配ったともいわれる。
当時、和帝にはすでに陰皇后がいた。陰皇后は背が低く、嫉妬深い人物とされる。鄧綏は丁寧に仕え、その過ちをかばおうとしたが、かえって皇后の嫉妬を招いた。永元14年(102年)、陰皇后は廃位され、陰氏の一族は流罪となり、陰皇后もその後に亡くなった。和帝は鄧綏を皇后に立てようとし、鄧綏は辞退したものの、同年10月に皇后となった。廃位には、鄧綏を呪うため巫蠱を行ったという嫌疑が関わったとされる。皇后となってからも謙虚で、皇后に通例贈られる貢ぎ物を断り、紙と墨だけを受けたと伝えられる。班昭を教育係とし、経書の講義を受けた。学問や芸術を後援し、宮中での紙の使用を奨励したため、紙が世界に広まるきっかけを作った人物ともみなされている。
元興元年12月(106年2月)に和帝が没すると、鄧綏は皇太后として朝政に臨んだ。彼女には子がなかったため、和帝の後宮の二人の子のうち、長子の平原王劉勝は持病があるとして退け、生後100日余りの劉隆を皇帝に立てた。殤帝である。兄の車騎将軍鄧騭とともに政治を運営した。延平元年(106年)に殤帝が2歳で没すると、13歳の劉祜を擁立した。これが安帝で、鄧氏の臨朝は続いた。
摂政としての鄧綏は、税を減らし宮廷の経費を切り詰めて貧しい人々を助けたといわれる。身内にも不正を許さず、賄賂や汚職に強く反対する姿勢を貫いたといわれる。和帝の時代に権勢を振るい、のちに和帝によって倒された竇氏の一族と関係者に大赦を与え、死刑の上訴期間を延ばす法の改革も行った。雹や洪水、干ばつが続く時期に救済を組織し、匈奴や羌の辺境での騒乱にも対処した。永初元年(107年)には安帝とともに倭国王帥升らの朝貢を受け、生口160人を献上されたと『後漢書』は記す。兄の鄧騭は、1万戸の領地に加え3千戸の加増を命じられても固辞したという。母の姉の陰氏の財産も返した。もともと鄧氏は、後漢の建国以来の外戚である陰氏の、さらに外戚にあたる家であった。彼女の統治は、後漢で安定して有効に機能した最後の時期の一つとされ、後の統治者は権力闘争に引き込まれて帝国を次第に不安定にしたといわれる。一方で権力への執着も強かった。杜根が成人した安帝の親政を求める上書をすると、激怒して彼を収監し、袋に詰めて殿上で撲殺しようとした。永寧2年(121年)3月に没し、和帝の順陵に合葬された。安帝は、鄧綏がわざわざ夫の実子を避けて立てた皇帝であったが、その命令により、鄧騭は絶食して果てた。