伝記
ヘンリー・ボーフォートは、1375年ごろに生まれたイングランドの聖職者であり、政治家である。ボーフォート枢機卿とも呼ばれた。父はイングランド王族のランカスター公ジョン・オブ・ゴーント、母はその愛人で、のちに3番目の妻となったキャサリン・スウィンフォードである。アンジューのボーフォート城で生まれたとされ、ランカスター朝を興したヘンリー4世は異母兄にあたる。オックスフォード大学とアーヘンで学んだ。1397年に従兄のリチャード2世から、きょうだいとともに嫡出と認められたが、王位継承権からは除かれた。1398年にリンカン司教となり、1403年には大法官を兼ね、1404年にウィンチェスター司教に移り、1405年に大法官を辞した。1407年には異母兄ヘンリー4世から改めて嫡出と認められた。
ヘンリー4世の治世には、弟トマスと甥の王太子ヘンリー(のちのヘンリー5世)とともに、ブルゴーニュ公国と手を組んだ北フランス遠征を主張し、そのためヘンリー4世に退位を迫ったので、激怒した王により1411年に評議会から追われた。1413年にヘンリー5世が即位すると大法官に復帰し、1414年と1415年には議会でヘンリー5世のフランス遠征宣言を代弁するなど重用された。1417年に大法官を辞してコンスタンツ公会議に出席し、教皇マルティヌス5世の選出に尽力したが、枢機卿の地位を打診されても、ヘンリー5世に反対されて実現しなかった。
1422年に大甥のヘンリー6世が幼くして即位すると、諮問会議の一員となり、1424年に3度目の大法官となった。摂政のベッドフォード公ジョンがフランスで不在のため、弟のグロスター公ハンフリーが代行の護国卿となったが、独走を抑えるため評議会の同意なしには権力を行使できないとされ、同時にボーフォートは自派の官僚を評議会に送り込んだので、グロスター公と対立した。1426年のベッドフォード公の仲裁(バット議会)も実らず、大法官を辞して、代わりに枢機卿となり、1427年にはフス派の異端に対抗する教皇特使として神聖ローマ帝国に赴いた。1428年に帰国すると、グロスター公が枢機卿を非難しても形勢は変わらず、評議会の基盤を固めた。
1429年7月には、ベッドフォード公の求めで2500人をパリへ送った。1430年に捕らえられたジャンヌ・ダルクの身柄引き渡しについてボーヴェ司教ピエール・コーションらと相談し、ジャンヌの牢獄の鍵の預かり人の一人となって、1431年5月の異端裁判にも臨席した。同年12月にはパリのノートルダム大聖堂でヘンリー6世の戴冠式を執り行ったが、民衆の評判は悪かった。1435年の和平会談では折り合いがつかず、フランスとブルゴーニュが和睦して、イングランドは一層不利になった。同年にベッドフォード公が急死し、1439年の会談も失敗した。1437年にヘンリー6世が親政を始めると、国王の信任の厚いボーフォート派が実権を握り、枢機卿は和平派として、抗戦派のグロスター公やヨーク公リチャードと対立した。1440年には反対を押し切ってオルレアン公シャルルを釈放し、翌年グロスター公を宮廷から遠ざけた。1445年にはサフォーク伯に権限の大部分を委ねた。
1447年2月、ヘンリー6世の命でグロスター公が逮捕されて獄死し、2か月後の4月11日に枢機卿も高齢で亡くなった。ウィンチェスター大聖堂の身廊の建設をほぼ完成させなど、教会への貢献も残している。派閥はサフォーク公とサマセット公に受け継がれたが、専制と和平外交の失敗が百年戦争の敗北と薔薇戦争の遠因になった。
同じ年に亡くなった人物
- シャー・ルフ (1447年没)
- エウゲニウス4世 (ローマ教皇) (1447年没)
- ハンフリー・オブ・ランカスター (1447年没)
- ヴラド2世 (1447年没)
- ミルチャ2世 (1447年没)
同じ地域に関係する人物
- エリザベス・ギャスケル (1865年没)
- エルフリーダ (1001年没)
- ダキンフィールド・ヘンリー・スコット (1934年没)
- スティガンド (1072年没)
- ジェイン・オースティン (1817年没)