伝記
ヴラド2世は、ヴラド竜公、ヴラド・ドラクルとも呼ばれる、ワラキアのヴォイヴォダ(公)である。1395年より前に生まれ、1447年12月(11月とも)に没した。1436年から1442年まで、また1443年から1447年まで公位にあった。ワラキア公ミルチャ1世(老公)の子で、ドラクレシュティ家の祖であり、のちに串刺し公として知られるヴラド3世の父でもある。ミルチャ1世の数多い庶子の1人だったとされる。
幼いころの記録は乏しい。1395年か1396年に、ハンガリー王ジギスムントのもとへ人質として送られ、ブダやニュルンベルクなどで育ったと考えられている。1418年にミルチャ1世が亡くなり、唯一の嫡子ミハイルが跡を継いだが、2年後に従兄ダン2世との戦いで死に、その後の10年ほどは、ダン2世とヴラドの異母兄ラドゥ2世が公位を争った。ビザンティンの歴史家ドゥーカスは、ヴラドがビザンティン皇帝ヨハネス8世の軍の将校で、コンスタンティノープルの宮殿に出入りしていたと記している。ヴラドは、皇帝がワラキア奪取の助けにならないと悟り、1429年にハンガリーに戻った。1431年2月8日、ニュルンベルクで、ジギスムントにより、ジギスムントの設立したドラゴン騎士団の一級会員とされた。この騎士団の竜の形の記章から、「ドラクル(竜)」の異名を受け、子らも「ドラクラ(ドラクルの子)」と呼ばれることになった。ジギスムントは、ヴラドをワラキアの正当な公と宣言したが、実際に助けてはくれなかった。同じ1431年の夏、異母兄アレクサンドル1世アルデアが、モルダヴィアの支援でワラキアに侵入し、ダン2世を追放した。ヴラドは、あきらめずにトランシルヴァニアに住んだ。
1436年の秋にアルデアが亡くなると、ヴラドはハンガリーの支援を受けてワラキアを手に入れた。1437年にジギスムントが没してハンガリーの立場が弱まると、ヴラドはオスマンのスルタン、ムラト2世に臣従の礼をとり、1438年夏のムラト2世によるトランシルヴァニア侵攻にも加わった。1441年、トランシルヴァニア侯フニャディ・ヤーノシュが、対オスマンの十字軍に加わるよう説得に来た。フニャディがトランシルヴァニアでオスマン軍を破ると、スルタンはヴラドをエディルネに呼び出して捕らえた。フニャディはワラキアに侵入して、ヴラドの従兄バサラブ2世を公位につけた。1442年のうちに釈放されたが、2人の幼い息子ヴラドとラドゥを人質としてオスマンの宮廷に残さなければならなかった。1443年、オスマンの支援を受けて公位に復した。ワラキアの少年たちをオスマン軍で鍛えさせ、毎年貢納を納めるという条件で和議を結んだ。
1443年から1444年のヴァルナ十字軍では、フニャディに軍への参加を命じられたが、ヴラドは拒んだとも、騎兵4,000を送ったともされる。長子ミルチャ2世は、父の政策を支持しなかったが、有能な指揮官として、1445年にジュルジュ要塞を奪い返した。ヴラド自身は、地位と人質の息子たちを守るため、要塞をオスマンに渡す条約を結んだとも伝えられる。1446年か1447年にオスマンと和平を結んだことで、フニャディとの関係は悪化した。1447年12月、フニャディがワラキアに侵入し、ヴラドはトゥルゴヴィシュテから逃れたが、近くの沼地で自国の有力者に殺された。長男ミルチャは、目をつぶされたうえ、トゥルゴヴィシュテに生き埋めにされた。ヴラド3世やラドゥ3世ら4人の息子は、のちにみなワラキアの公位に就いた。
同じ年に亡くなった人物
- フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ (1447年没)
- ミルチャ2世 (1447年没)
- Saint Colette (1447年没)
- ルートヴィヒ7世 (バイエルン公) (1447年没)
- ハンフリー・オブ・ランカスター (1447年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴィクトル・スタンクレスク (2016年没)
- ダニエル・プロダン (2016年没)
- コルネリウ・コドレアヌ (1938年没)
- イオン・アントネスク (1946年没)
- ミハイ・アントネスク (1946年没)