HISTORICAL PERSON · 1447年没

シャー・ルフ

ティムール朝第3代君主。父帝没後の混乱を制して即位し、ヘラートを拠点に明との国交を回復、詩作や建築、学芸を篤く保護してティムール朝文化の最盛期を築いた。

生涯
1447年没
死亡地
イラン共和国(テヘラン州 / レイ)
出生地
ウズベキスタン共和国(サマルカンド)
出典
世界地図
イラン共和国(テヘラン州)

伝記

シャー・ルフ・ミールザーは、ティムール朝の第3代君主である。1377年8月にサマルカンドで、初代君主ティムールの四男として生まれ、1447年3月に没した。漢籍では沙哈魯と書かれる。生まれる直前、ティムールはチェスをしており、城(ルフ)の駒で王(シャー)手をかけたとき、四男の誕生の報を受けて喜び、子に「シャー・ルフ」と名づけたという伝承がある。

1397年、ヘラートを中心とするホラーサーン地方を領地として与えられた。1401年のアンカラの戦いにも従軍し、その率いるホラーサーン軍は中軍の左翼に配置された。1405年、父が明遠征の途中にオトラルで病死した。ティムールは生前、嫡孫のピール・ムハンマド・ジャハーンギールを後継者に指名していたが、シャー・ルフと、ティムールの三男ミーラーン・シャーの子ハリール・スルタンは、自分の名をフトバと貨幣に用いて独立の意思を示し、ほかにも帝位をうかがう王族は多かった。シャー・ルフは、ミーラーン・シャーとハリールの合流を阻み、反乱を起こした配下の貴族を討って、地盤を固めた。ピール・ムハンマドは配下に暗殺され、ハリールも配下の反乱でサマルカンドから追放され、最後の有力者としてシャー・ルフが残った。1409年5月、サマルカンドに入城し、ハリールを廃位して即位した。

シャー・ルフは、即位前からの居住地であったヘラートに住み、1412年までに居所を宮殿からヘラート西北の「カラスの園」に移した。サマルカンドには、息子ウルグ・ベクを総督に、ベルグト部のシャー・マリクを後見人に置き、のちシャー・マリクを罷免して、ウルグ・ベクと国を2つに分けて共同統治する体制となった。治世の初めは、親族、とくに息子たちの反乱を恐れて、領地を頻繁に変えた。1414年には、ファールスの総督に任じていた甥のイスカンダルが反乱を起こし、シャー・ルフは自ら親征して、翌1415年に殺害した。シーラーズでイスカンダルを破ったとき、彼に雇われていた宮廷画家を迎え入れ、これによりシーラーズ特有の絵画技法がヘラートにもたらされた。以後ヘラートは、ティムール朝の宮廷絵画の中心地となった。

ティムールの没後に失った領地の回復を試みたが、黒羊朝の支配下に入ったアゼルバイジャンの奪回には失敗した。1420年、1429年、1433年の3度、遠征を行い、最初の遠征では黒羊朝の指導者カラ・ユースフが没したため、一度は支配下に戻った。だが、シャー・ルフが帰還した直後に、カラ・ユースフの子イスカンダルが再び独立した。ジャハーン・シャーを対立王に擁立し、生前は恭順の意思を示させたが、完全に従属させるには至らなかった。

シャー・ルフは、敬虔なムスリムで、シャリーアの遵守を前面に出した。父と異なり、キュレゲン(チンギス・カンの婿)を名乗らず、傀儡のハンも立てなかった。金曜日には一般の信徒とともにモスクで礼拝し、息子たちも含めて厳格な禁酒を敷いた。1427年2月、金曜礼拝を終えてモスクから出たとき、異端の信者に腹部を刺される事件が起きた。詩作を好み、書道を得意とする文人で、ヘラートのバザールや城壁の整備、中央大モスクの改修、病院の建設を行い、歴史家の支援にも熱心だった。外交では、明との国交修復を、サマルカンドに入る前から進め、1408年にヘラートを訪れた明の使節への返礼として、北京へ使者を送った。永楽帝からは織物が、ティムール朝からはライオンや中央アジアの馬が贈られた。晩年、イラン高原で反乱を起こした孫を討つ遠征の途中、1447年3月にレイで陣没した。

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