伝記
ハンフリー・オブ・ランカスターは、1390年10月3日に生まれたイングランドの王族で、軍人であり、文芸の保護者でもあった。ヘンリー4世と最初の妻メアリー・ド・ブーンの四男で、末子にあたる。生まれた場所は分かっていない。名は母方の祖父ハンフリー・ド・ボーハンにちなむ。ヘンリー5世、クラレンス公トマス、ベッドフォード公ジョンの弟で、兄たちが辺境で戦っていたころ、彼は学者としての教育を受け、オックスフォード大学のベリオル学寮で学んだともいわれる。1413年に父ヘンリー4世が亡くなる床には、兄のヘンリー(のちのヘンリー5世)とともに居合わせた。1414年にグロスター公とペンブルック伯に叙せられ、イングランドの侍従長にもなって議会に席を得た。
1415年にはヘンリー5世のフランス遠征に加わり、古典の学びから得た攻城戦の知識でオンフルールの陥落に貢献した。同年のアジャンクールの戦いで負傷し、倒れた彼を王が盾となってかばい、フランス騎士の猛攻をしのいだ。1422年にヘンリー5世が急死すると、甥のヘンリー6世の摂政代理、護国卿となったが、ヘンリー6世を補佐する諮問会議は彼の権力を制限する方針をとり、摂政は三兄のベッドフォード公ジョンとされ、グロスター公はフランスを統治する兄がいない間の代理にすぎないとされた。この決定に叔父のヘンリー・ボーフォート枢機卿が深くかかわっていたため、二人は対立するようになった。同じ1422年に、エノー・ホラント・ゼーラント女伯ジャクリーヌと結婚した。
1424年10月、グロスター公は妻ジャクリーヌの権利を主張してネーデルラントに侵攻し、イングランドと同盟していたブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)と対立した。これはブルゴーニュとの同盟を崩しかねない行いで、独断に怒った兄の勧告も退け、1425年4月にイングランドに戻るまで各地を転戦し、12月に再び遠征軍を送ったがブルゴーニュ軍に敗れた。一方、国内ではボーフォート派の排除をはかったが、兄の調停で1426年のバット議会でいったん矛を収め、兄が1427年にフランスへ向かうと再び枢機卿を非難したものの、諮問会議の反対で失敗した。1428年に教皇マルティヌス5世がジャクリーヌとの結婚を無効とすると、ネーデルラントへの介入を諦め、同じ年に愛人でジャクリーヌの侍女だったエレノア・コブハムと再婚した。
1435年に兄ベッドフォード公が亡くなり、1437年にヘンリー6世が親政を宣言すると、国王の信任の厚い枢機卿らボーフォート派が実権を握った。政争に敗れた彼は、フランスとの戦いで抗戦派としてヨーク公リチャードらと結び、和平派と対立した。1440年に和平派が実行した、捕虜のオルレアン公シャルルの釈放に反対したが受け入れられず、1441年には妻エレノアが黒魔術でヘンリー6世を呪ったとの疑いで逮捕されて終身刑となり、大きく面目を失った。1447年、王妃マーガレット・オブ・アンジューやボーフォート枢機卿、サフォーク伯らの工作で逮捕され、2月23日に急死した。和平派に暗殺されたともいわれる。4月には枢機卿も亡くなった。
軽率な行動が多く不遇な生涯を送ったが、文芸の保護には熱心で、その蒐集書は大学に寄贈されて、のちのボドリアン図書館の元となった。イングランド商人への免税を進めたことから商人層やロンドン市民に人気があり、善良公と呼ばれた。嫡子には恵まれず、グロスター公位は断絶した。庶子にアーサーとアンティゴネがおり、母はエレノアとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ヴラド2世 (1447年没)
- エウゲニウス4世 (ローマ教皇) (1447年没)
- ミルチャ2世 (1447年没)
- Saint Colette (1447年没)
- フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ (1447年没)
同じ地域に関係する人物
- ロン・グリーンウッド (2006年没)
- ジョン・スティーブンス・ヘンズロー (1861年没)
- ジャック・ブルース (2014年没)
- ベンジャミン・ブリテン (1976年没)
- エドマンド殉教王 (869年没)