伝記
足利義勝は、室町幕府の第7代将軍である。永享6年2月9日(1434年3月19日)に、6代将軍足利義教の長男として生まれた。母は側室の日野重子であったが、義教の正室、正親町三条尹子の猶子となり、世子として認められた。幼名は千也茶という。生まれたばかりのころは夜泣きがひどく、醍醐寺から宗観や義賢が召されて、夜泣き封じの祈祷を連夜行った。これが史料に残る義勝の唯一の肉声とされる。同じ年の3月3日、畠山持国の邸に一泊し、翌4日に政所執事の伊勢貞国の屋敷に入った。その後は伊勢邸で養育され、室町第に入るまでの8年間を過ごした。
嘉吉元年(1441年)6月24日、嘉吉の変が起こり、父の義教が赤松満祐に殺害された。義勝は26日に室町第へ移され、管領の細川持之ら大名に擁されて、後継者となることが確認された。同年8月19日、後花園天皇から義勝の名を与えられた。装束と髪型は童形のままであったが、これ以後は「室町殿」と呼ばれるようになった。家督を継いだとき、幼くて政治の能力がなかったため、管領の細川持之が幕府の政務をとりまとめ、赤松満祐の討伐を主導し、「代初めの徳政」を求めた嘉吉の徳政一揆も平定した。
嘉吉2年(1442年)11月、義勝は、関白の二条持基を烏帽子親として、9歳で元服した。あわせて将軍宣下が行われ、第7代将軍となった。細川持之が管領を辞したのちは、有力な守護大名の畠山持国、山名持豊、生母の日野重子らが実権を握った。嘉吉3年(1443年)6月19日、朝鮮王の使節が入京し、義勝は室町第で使節と会見した。幕府は、義勝が年少であることや、護衛に多額の費用がかかることを理由に入京を断ろうとしたが、義教への弔意を伝えるためだと説明を受け、しぶしぶ認めた。使節は50騎におよび、楽隊も従えていたため、朝廷や幕府の要人は、幼い義勝をいかに威厳があるように見せるか悩んだのではないか、と榎原雅治は推測している。
同年7月21日、義勝は室町第で死去した。10歳(満9歳)であった。将軍の在任期間はわずか8か月にすぎなかった。死因は落馬や暗殺など諸説あるが、赤痢による病死が有力とされる。後任の将軍には、僧になる予定だった同母弟の8歳の三春が選ばれた。のちの義成、義政である。将軍に就任したのは、6年後の1449年のことだった。義勝、義政と幼い将軍が2代続いたことで、有力な守護大名の幕政への発言力が増し、将軍の権威は大きく揺らぎはじめた。
義勝は成年になる前に亡くなったため、どのような能力の人物だったかは分からない。墓所は安国寺の慶雲院にあったとされるが、焼失して現存しない。木像は等持院に残る。建仁寺の塔頭、霊源院には、義勝が描いたという「達磨図」が伝わる。江西龍派の賛によれば、義勝が10歳のときに、家臣の千秋持季に描き与えたもので、まもなく義勝が亡くなったため、持季は、この絵を見るたびに追慕の念に堪えられず、江西に賛を求めたという。
同じ年に亡くなった人物
- 世阿弥 (1443年没)
- スチェパン・トヴルトコ2世 (1443年)
- ガッタメラータ (1443年没)
- フェルナンド聖王子 (1443年没)
- イェレナ・ラザレヴィチ (1443年)