HISTORICAL PERSON · 1582年没

織田信長

尾張出身の戦国の三英傑の一人。桶狭間で今川義元を討ち、足利義昭を奉じて上洛、のち義昭を追放して織田政権を築いた。長篠の戦いで武田氏に勝ったが、1582年に家臣の明智光秀の謀反で本能寺に自害した。

生涯
1582年没
死亡地
日本(京都府 / 本能寺跡)
出生地
日本(勝幡城)
出典
世界地図
日本(京都府)

伝記

織田信長は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名で、戦国の三英傑の一人に数えられる。天文3年(1534年)5月、尾張国の戦国大名・織田信秀と土田御前の嫡男として生まれ、幼名は吉法師といった。生誕地は那古野城・古渡城・勝幡城の3説に分かれ、1992年発表の論文をきっかけに勝幡城説が妥当と考えられている。生家の弾正忠家は、尾張下四郡の守護代・織田大和守家の家臣で、清洲三奉行の一つという家柄だった。信長は早くに信秀から那古野城を譲られたが、『信長公記』によれば奇矯な行動が多く、周囲から「大うつけ」と呼ばれたという。天文15年(1546年)に元服して三郎信長を称し、翌年には今川方との小競り合いで初陣を果たした。天文17年または18年頃、美濃の斎藤道三との和睦の証として、道三の娘・濃姫と政略結婚をした。

天文21年(1552年)3月頃に父信秀が死ぬと、家督を継いだ。外には清洲城の守護代・織田大和守家という対立者があり、内には弟の信勝(信行)らの競争者を抱える苦しい立場だった。同年8月、清洲方が敵対姿勢を鮮明にすると、萱津の戦いで勝利した。天文22年に宿老の平手政秀が自害すると、信長は嘆いて政秀寺を建てて弔った。天文23年には、清洲方に守護の斯波義統が殺害される事件が起こり、これを大義名分として清洲城を奪い、守護代家を滅ぼした。弘治2年(1556年)に義父の道三が敗死した後、林秀貞や柴田勝家らは信勝を擁して挙兵したが、稲生の戦いで信長が勝った。永禄元年(1558年)に信勝が再び謀反を企てると、柴田勝家の密告で悟った信長は、病と称して信勝を清洲城に誘い出して殺害した。同年、織田伊勢守家の信賢を浮野の戦いで破り、翌年には岩倉城を落とした。

永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、三河の徳川家康(松平元康)と同盟を結んだ。永禄8年に犬山城の織田信清を破って尾張を統一し、永禄10年には斎藤氏を駆逐して尾張・美濃の二国を領した。このころ「天下布武」の印を使い始める。翌年10月、足利義昭とともに上洛して三好三人衆らを撃破し、室町幕府を再興した。元亀元年(1570年)には姉川の戦いで朝倉義景・浅井長政を破ったが、比叡山や石山本願寺などに追い詰められ、翌年には比叡山を焼き討ちした。元亀4年(1573年)に義昭と敵対して京都から追放し、朝倉・浅井らを滅ぼした。天正3年(1575年)には長篠の戦いで武田氏に勝ち、右近衛大将に就いて、翌年から安土城の築城を始めた。天正8年に石山合戦に決着をつけ、翌年には京都で馬揃えを行った。

天正10年(1582年)、甲州征伐で武田氏を滅ぼし、東国の大名の多くを従えた。信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずる構想も持ち上がった。しかし毛利氏討伐のため中国攻略の準備を進めていた6月2日、重臣・明智光秀の謀反によって京の本能寺で自害に追い込まれた。信長の性格は極めて残虐で家臣に酷薄だったと一般に言われるが、世評を重視し家臣の意見にも耳を傾けたという異論もある。武芸の鍛錬に励み、鷹狩り・茶の湯・相撲を愛好し、南蛮などの異国にも興味を持ったといわれる。江戸時代には新井白石らが残虐性を非難して評価は低かったが、明治には神として祀られ、戦後は革新者として評価された。近年は、その革新性を否定する研究が主流となっている。

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