HISTORICAL PERSON · 1598年没

豊臣秀吉

戦国時代から安土桃山時代の武将で、初代武家関白・太閤。信長の没後に山崎の戦いや賤ケ岳の戦いで勝ち、小田原征伐などで天下を統一した。太閤検地や刀狩令を進め、晩年は朝鮮に2度出兵した。

生涯
1598年没
死亡地
日本(京都府 / 伏見城)
出生地
日本(中村区)
出典
世界地図
日本(京都府)

伝記

豊臣秀吉は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名で、のちに公卿にも列した。初代の武家関白、また太閤であり、織田信長の後を継いで天下統一を果たし、近世封建社会の基礎を築いた。三英傑の一人に数えられる。

出自と少年期には謎が多い。広く百姓の子と知られるが、同時代の史料では確かめられず、江戸時代以降の編纂物から推測するほかない。『太閤素生記』によれば、尾張国愛知郡の中村郷で木下弥右衛門と仲の間に生まれたとされ、生年は従来の天文5年(1536年)から、近年は天文6年(1537年)説が有力で、誕生日も同年2月6日とする説が有力である。幼名の日吉丸は創作とみられている。『太閤素性記』では、8歳で実父と死別し、16歳で父の遺産の永楽銭一貫文を元手に木綿針を買って行商しながら遠江へ向かったとされる。一方、『太閤記』は、8歳で寺に入ったが馴染めず、10歳で家を出て流浪したと伝える。このほか、村長の子、大工や行商人などの非農業民、漂泊民の出身とする説もあり、木下の名字の由来にも諸説があって、真相は不明である。後年の秀吉自身は、ごく貧しい少年期を過ごし、その頃に父を亡くしたと述懐している。安国寺恵瓊は、若い頃の秀吉を取るに足りない者で、乞食をしていたと記す。

はじめは木下藤吉郎秀吉と名乗り、遠江国頭陀寺城主の松下之綱に仕えたが、まもなく退いて尾張へ戻ったという。天文23年(1554年)頃から織田信長に奉公人として仕えたとされる。信長の草履を懐で温めておき、褒められたという逸話が知られる。1561年には浅野長勝の養女で杉原定利の娘であるねねと結婚したが、結婚は1565年とする異説もある。清洲城の普請で成果を挙げ、斎藤龍興との戦いでは美濃の城主らを誘降した。名が現れる最初の史料は、1565年11月の坪内利定宛ての知行安堵状である。墨俣一夜城の逸話も伝わり、蜂須賀正勝や前野長康を配下とし、斎藤氏の滅亡後には竹中重治らを与力とした。1568年の信長の上洛では、明智光秀、丹羽長秀らと京都の政務を任され、翌年には但馬へ派兵されて10日で18城を落としたと記される。

やがて羽柴に改姓し、長浜・但馬・播磨を領する宿老となった。中国方面で毛利氏と戦う最中に本能寺の変が起こると、急ぎ毛利氏と和睦して京へ引き返し(中国大返し)、山崎の戦いで明智光秀を破った。さらに賤ケ岳の戦いで柴田勝家を破り、織田政権内の主導権争いに勝って豊臣政権を確立した。武士として初めて関白となり、正親町天皇から豊臣の姓を賜った。朝廷の権威を背景に惣無事を掲げ、諸大名に臣従を求め、小田原征伐で北条氏を降し、奥州仕置を行って天下統一を果たした。

政権は太閤検地、刀狩令、石高制を全国で進め、蔵入地や鉱山の収入で巨大な財力を得た。聚楽第、方広寺、伏見城などを造営し、茶の湯や美術工芸、芸能を好んだ。その治世に栄えた文化は桃山文化と呼ばれる。晩年は明の征服を決意して朝鮮へ2度出兵した(文禄・慶長の役)。その最中に実子の秀頼が生まれ、後継と定めていた甥の秀次を排して政権の再構築を迫られたが、まもなく病に倒れ、幼い秀頼を徳川家康と前田利家に託して世を去った。没後は神格化されて豊国大明神の神号を贈られたが、その祭祀は豊臣氏滅亡後、江戸時代を通じて禁じられ、明治維新後に再興された。

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