HISTORICAL PERSON · 1482年没

マーガレット・オブ・アンジュー

ヘンリー6世の王妃。薔薇戦争でランカスター派を率い、意志の弱い夫と幼い息子に代わって戦争を指揮し、ヨーク朝に徹底抗戦したことで知られる。

生涯
1482年没
死亡地
フランス共和国(メーヌ=エ=ロワール県 / Souzay-Champigny)
出生地
フランス共和国(ポンタ=ムッソン)
出典
世界地図
フランス共和国(メーヌ=エ=ロワール県)

伝記

マーガレット・オブ・アンジューは、1429年3月23日、ロレーヌ公国(厳密にはバル公領)のポンタ=ムッソンで、ロレーヌ公・アンジュー公でナポリ王でもあるルネと、ロレーヌ女公イザベルの娘として生まれた。フランス王シャルル7世の王妃マリー・ダンジューは伯母にあたる。幼少期は父方の祖母ヨランド・ダラゴンのもとで育った。1445年4月23日、イングランド王ヘンリー6世と結婚した。王の側近サフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポールとヘンリー・ボーフォート枢機卿が進めた、百年戦争の和平の一環の政略結婚だった。前年に結ばれたトゥール条約は、フランス側から持参金が一切なく、逆にイングランドがアンジューとメーヌを割譲する内容で、宮廷の不満を招き、薔薇戦争の原因の一つになったとされる。

イングランドに入ったマーガレットは、和平派の首領サフォーク公と親しくなり、その政策を夫とともに後押しした。和平派は二人の信任を背景に、グロスター公ハンフリーやヨーク公リチャードら抗戦派を遠ざけたが、多くの貴族の不満を集めた。1449年に百年戦争が再開されてノルマンディーを失うと、宮廷への不満が爆発し、サフォーク公は1450年に失脚して暗殺された。その後は寵臣サマセット公エドムンド・ボーフォートが国王夫妻に支えられたが、1453年に百年戦争がイングランドの敗北で終わり、ヘンリー6世が発狂した。10月13日に息子エドワードが生まれると、王位継承権を持つヨーク公は危機感を抱いて政権を握り、マーガレットは自分を摂政にするよう求めたが却下された。1454年にヨーク公が護国卿となったが、年末に王が回復してヨーク派は政権を追われた。1455年の第一次セント・オールバンズの戦いでサマセット公は戦死し、1459年9月のブロア・ヒースの戦いで武力衝突となった。

マーガレットは、精神的に不安定な夫に代わり、有力貴族とともにランカスター朝を支えた。ランカスター派の旗印として自ら戦争を指揮し、王はヘンリーではなくマーガレットだとまで言われた。1460年7月のノーサンプトンの戦いで夫を捕らえられたが、息子を連れて抵抗を続け、スコットランドの支援を取りつけて、12月のウェイクフィールドの戦いでヨーク公とソールズベリー伯を討った。捕虜への処罰は凄惨を極め、後にシェイクスピアは戯曲で「あのフランスの雌狼め」と罵る言葉を織り込んだ。1461年、ヨーク公の長男エドワードがエドワード4世に即位し、3月のタウトンの戦いでランカスター派は大敗した。マーガレットは夫と息子とともにスコットランドへ逃れ、1462年にはフランス王ルイ11世から小規模な援軍を得たが、1463年にアニック城が陥落してフランスへ亡命した。

1470年、ウォリック伯と手を組んだ彼女は、ヘンリー6世の復位を見たが、ウォリック伯を信用せずイングランドへ上陸しなかった。1471年4月にエドワード4世が巻き返し、ウォリック伯はバーネットで戦死した。マーガレットは息子とともに上陸したが、5月4日のテュークスベリーの戦いで息子を失い、ヘンリー6世も殺された。ロンドン塔などに幽閉され、1475年にルイ11世が身代金を支払って釈放され、フランスに帰国した。王妃の称号と寡婦財産を放棄する厳しい条件付きだった。晩年の7年間は貧困に苦しみ、1482年8月25日、53歳でアンジューで死去した。男勝りな性格が「堂々として精力的な女性」と証言される一方、夫や息子の王位継承権を守るため手段を選ばないと非難された。1448年にはケンブリッジ大学に関わる創設も行い、カレッジは現在に残る。

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